大屋地爵士のJAZZYな生活

青によし奈良の都に・・・・ ~平城宮跡を歩く~

40年ほど前に入社したての頃、奈良に遊びに来たことがある。近鉄電車が西大寺の駅に着く直前、車窓にとでつもない広大な原っぱが広がり、何なんだと訝ったことがある。それが、土地を取得したが、未整備の平城宮跡地であったのだ。その強烈な印象はいまだに脳裏に焼き付いている。その後、朱雀門、東院庭園、遺構展示館、平城宮跡資料館などの整備がすこしずつ進み、現在は来年の遷都1300年に向けて、第一次大極殿の復元が進んでいる。

早春の暖かい日差しのなか、秋篠寺を後にし、世界遺産・平城宮跡へと向かった。

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710年、藤原京から移された都・平城京は、途中、恭仁京や紫香楽宮へ遷都された時期を除くと、784年の長岡京遷都にいたるまで、日本の政治の中心であった。平城宮は、平城京の北端に置かれ、広さは120万平方メートル余、甲子園球場約30個分の広さ。天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙から成り、 周囲は5m程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門はじめ豪族の氏名にちなんだ12の門が設置されていた。 東端には、東院庭園がおかれ、宴などが催された。 また、この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。
これらの復元遺構や資料館などはすべて無料で見学できる。

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(写真は平城宮第ニ次大極殿跡地。背景に見えるのは遷都1300年に向けて復元建造中の第一次大極殿。)

794年の平安京遷都後は放棄され、農地となっていたが、明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、以後保存運動が起こり、1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、平城宮址は、1922年に国の史跡に指定された。1960年代に私鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動がおこった。その結果、現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され、奈良市のほぼ中央に位置しているにも関わらず、広々とした野原として保たれている。

まず第二次大極殿址に立ってみる。暖かい日差しのせいもあるだろうが、そのどこまでも広く、伸びやかな景観に、心が実にゆったりとなる。東は若草山、そのふもとの二月堂、東大寺、南は朱雀門、その彼方の二上山、南東には大阪・河内平野を象徴する生駒山が一望の下に見渡せる。明日香の狭い地に築かれた藤原京を離れ、この広い奈良盆地に都を築いた当時の人々の感慨が伝わってくる。

そして遺構展示館へ。発掘調査で見つかった遺構をそのまま見ることができるほか、第一次大極殿や内裏の復元模型を展示している。建築技術、木材加工技術、土木技術など当時の都づくりを支えていたその技術に驚嘆した。これらの技術はすべて半島からの渡来した技術によるものであると言う。技術だけが伝播してくるわけではなく、当然人の往来があったのだ。政治、文化、宗教、工芸、建築などのあらゆる面で知識や技術を持つ半島からの大量の渡来人が政治の中枢、或いはテクノクラートとして行政のトップに位置していたことは容易に推測できる。したがって古代日本において、朝鮮半島の政治情勢が色濃く影をおとしていたと考えれば、かなり納得できる歴史の部分もある。例えば「壬申の乱」。672年に百済系の天智天皇の子、大友皇子に対し、異母弟である新羅系の大海人皇子(のちの天武天皇)がおこした日本古代史最大の内乱であるが、一説に言われるように、百済vs新羅の影が尾を引く、政権争奪の戦いと考えれば理解も可能であろうし、日本国中に地名や文化、風習などでこれだけ古代朝鮮の痕跡が窺えることも説明がつく。
遺構展示館で、ボランティアで説明をしてくれた方は、70歳半ばを超えてもなお、かくしゃくとした百済の血を引くという在日朝鮮人の方。その歴史への情熱には感嘆。

そして平城宮跡資料館へ。794年、京都に遷都されて以後、百年も経ないうちに田畑となり、その下に奈良時代の遺構・遺物が地中に取り残された。奈良市で一番低い地形が幸いして水位が高く、土中にある木簡などが風化せず墨跡もあざやかなまま保存されたという。木簡が平城宮跡で最初に発見されたのは1961年。その時出土した39点の木簡は2003年3月に重要文化財指定を受け、それから全国で22万点を越える木簡が見つかり、そのうちの7万点が平城宮跡で見つかったという。続日本紀などの古記録に書かれている記述が木簡で裏打ちされたり、木簡抜きには古代史の解明はここまで進まなかったというのが実状です。
この木簡などが「埋蔵文化財」ということで1998年に奈良市の東大寺・興福寺・春日奥山・正倉院などとともに世界遺産に指定されました。

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(写真は東院庭園)

平城宮跡の西のはしにある資料館では、これまでの発掘調査・研究の成果をもとに、平城宮をわかりやすく展示しています。ここでも思いをこめて説明してくれた方は75歳のボランティアの方。シニアの方の情熱や思いが文化財の保護に、一役も二役もかっているのである。なんと素敵なことだろうか。

「わっしょい」という言葉が古代朝鮮語の「ワッソ」。「なら(奈良)」という言葉そのものが「国」と言う意味だとか、狛(こま)犬は高麗(こま)犬であるなどと言うことを知ったのは、日本古代史学に疑問を呈した歴史紀行シリーズ、金達寿著「日本の中の朝鮮文化シリーズ」であった。高麗氏族による祖先の祭りを起源とする祗園祭。新羅から渡来した、太泰・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。関西は、著者の想像をはるかにうわまわる濃厚・濃密な古代朝鮮文化の宝庫だった・・・。
 

日本の中の朝鮮文化―山城・摂津・和泉・河内 (講談社学術文庫)

金 達寿 / 講談社



司馬遼太郎の人気シリーズ「街道をゆく」。第2巻は、初の海外紀行で、訪ねる地域は、朝鮮半島。司馬氏は、加羅、新羅、百済の旧跡をたずね、日本と韓国の交流の歴史を読み解いている。書かれたのは1971年で、日本の植民地支配に対する恨みの感情が根強く残る日韓関係の暗黒の時代。その時代に司馬は、民族的には同じルーツを持つ日韓関係をよりよくしたいという願いがよく分かる。

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

司馬 遼太郎 / 朝日新聞社



称徳天皇は、東院庭園に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催したという。池、橋、築山、石組中の島、小石を敷き詰めた汀。この日本庭園の原型となる庭園の館で催されていた宴にはきっと雅楽が演奏されていたのでしょう。

雅楽〈天・地・空)~千年の悠雅~
東儀秀樹 / / 東芝EMI
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by knakano0311 | 2009-02-14 00:26 | おやじの遠足・街歩き | Trackback | Comments(0)
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