ずっと気になっていたひとりの作家、「カズオ・イシグロ」。その名前からして日系の作家であることは容易に察せられる。この名前が目に留まったのは、彼が、わがジャズ・ミューズの一人、「ステイシー・ケント/Stacey Kent」が2007年9月にリリースした最新アルバム「市街電車で朝食を/Breakfast on the morning tram」にタイトル曲を含め4曲の詩を提供していたからである。「ステイシー・ケント」はイギリスで活躍する女性JAZZシンガーであるが、オリジナル曲をアルバムに入れたのは、デビュー10年目にして初めてのことである。それだけ彼女には「カズオ・イシグロ」に対して思い入れがあったということだろう。作曲は彼女のパートナーでSAX奏者でもある「ジム・トムリンソン」。ライナーノーツで「カズオが書いてくれた歌詞はショートストーリーのような形になっていて、従来の歌の形式にはとらわれていないの。・・・・ わたしは二人の創りだした音楽の世界にノックアウトされてしまったわ。」とステイシーは語っている。そしてライナーには、「カズオ・イシグロは、日系英国人作家でイギリスの権威ある文学賞を受賞した」とだけ記されていた。その後、彼について特に調べたりすることもなく、その名前だけが記憶に引っ掛かっていたのである。
さて、「市街電車で朝食を/Breakfast on the morning tram」。ブルーノートへ移籍した第一作であるが、従来のスダンダードを中心にすえたアルバムではなく、「ノラ・ジョーンズ」のようなJAZZYではあるが、JAZZではなくポップスに近い感覚に仕上げたアルバムとなっている。オリジナルのほか「S.ゲーンズブール」、「ピエール・バルー」、「セルジオ・メンデス」などもとりあげられていて、相変わらずチャーミングでその聴き心地のよさ。そして、「カズオ・イシグロ」の歌詞4編。「二人の愛を確かめる旅にふさわしいのは北極よ」と誘う「アイス・ホテル」、「傷心のあまり眠れなかった朝を迎えるには朝の路面電車で朝食をとることが一番」と歌う「市街電車で朝食を」など。ステーシーが語るように、良質の短編小説を読むような感性豊かな情景が拡がる・・・。
五編うちで私が一番気に入ったのは第一編の「老歌手」。旧共産圏出身で、今はヴェネチアのレストランの雇われギタリストは、ゴンドラに乗って妻にセレナーデを捧げたいという米国の高名な老歌手に伴奏者として雇われるという話であるが、その捧げる歌の一つが、「チェット・ベイカー」の「惚れっぽいわたし/I Fall In Love Too Easily」である。遠い昔の熱くて若い頃、わたしが最初に「チェット・ベイカー」を聴いたアルバム「Chet Baker Sings」に収録されている曲。読後、なつかしい思いがこみ上げてきた。