人気ブログランキング | 話題のタグを見る

大屋地爵士のJAZZYな生活

あの頃は ・・・

あの頃は ・・・_b0102572_17433067.jpg


「東京オリンピック」にわいた頃、1960~70年代、あの頃の思い出話をもうちょっとだけ ・・・。

あの時の「東京オリンピック」の印象を、今、一口で言えば、「内に向かって開かれた内開きの扉」だったという印象である。敗戦の中から立ち上がり、必死に働いて戦後の復興と経済成長を遂げ、「諸外国よ!さあ、日本を見てくれ」とばかり誇らしげに胸を張った、オリンピック開催であった。そして、経済以外でも、「もっともっと海外からのいろんな文化を受け入れ消化できる」と、さらなる成長の可能性を信じていた。そのベクトルは、「大阪万博」でピークを迎えたように思う。しかしその成長は、やがてバブルとして弾け、以後20年以上にわたって萎縮が続いている。色々課題が山積みしているが、これを機に、オープンでグローバルな国に変わることによって、大部分が解決できるのではなかろうか ・・・。そして、技術だけでなく、日本から、もっともっとカルチャーを発信したらいい。扉を外に向かって大きく開くチャンスである。

そして、あの頃、音楽的には極めて多様な音楽が溢れて始めていた時代でもあった。それだけ、音楽に飢えていた時代とも言えよう。’60~70年代にかけて、怒涛のように海外から色々な音楽が日本になだれ込み、クラシック、ジャズは言うに及ばず、R&B、ビートルズ、エレキ・サウンド、フォーク・ソング、ロック、ポップス、コンチネンタル・タンゴ、アルゼンチン・タンゴ、マンボ、チャチャチャなどのラテン、フォルクローレ、シャンソン、ファド、カンツオーネ、ロシア民謡、ハワイアン、マリアッチ、ステレオ装置の家庭への普及などもあって、それぞれが花が咲き、聴きたい音楽なら何でも聴けた時代だった。音楽ジャンル別に、都会を中心に「音楽喫茶」が広まったのもこのころである。

あの頃は ・・・_b0102572_165079.jpg

そんな中で一際、異彩を放っていたのが、ボサノバである。日本にもボッサ・ブームが到来し、1966年の「セルジオ・メンデス&ブラジル'66/Sergio Mendes & Brasil '66」あたりで最高潮に達した。現在でも、日本にはボサ・ノヴァのファンが特に多いと言われ、ボサノヴァは完全に日本に定着しているといっていい。本家、ブラジルでは、1950年代終わり頃から、1960年代前半に一時的に流行った音楽として、完全に懐メロ化しているというから残念なことである。

あの頃は ・・・_b0102572_1364152.jpg

そんな、1960年代から70年代の日本でのボッサブーム。「和製ボッサ」といわれる曲が多く作られました。日本で作られた最初の本格的ボサノバといわれる曲は、「白い波」だといわれています。「ヒデとロザンナ」の「出門英」が作詞し、ロザンナと組む前に、「藤ユキ」とのデュオ、「ユキとヒデ」として歌っていた。あの「渡辺貞夫」が作曲した曲である。

「♪ 波 白い波  海の風に
    白くかがやき、太陽に歌うよ
     パパ パパパパヤパ
       夢にみたメロディー 二人に歌うよ
         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ♪」

そんな「白い波」を含む当時の和製ボッサを中心に24曲を収録した大名(珍?)盤ともいえるアルバムがある。「東京ボサノヴァ・ラウンジ」。なんというアルバム・タイトルでしょうか ・・・。「浅丘ルリ子/シャム猫を抱いて」、「マイク真木&前田美波里/眠りたいのさ」、「江波杏子/あなたのことが」、「大橋巨泉/こりゃまた皆さん百面相」 ・・・。収録曲を見ただけで、引いてしまう人がいるかもしれませんが、珍盤には違いありませんが、どうしてどうして、いや、ちゃんとしたアルバムですよ。

東京ボサノヴァ・ラウンジ

オムニバス / テイチク



「白い波」。「ユキとヒデ」のものがオリジナルですが、このアルバムでは、「トワ・エ・モワ」のカバーが収録されています。
「アストラッド・ジルベルト /Astrud Gilberto」も日本語でカバーした(「ゴールデン・ジャパニーズ・アルバム」)「白い波」を「トワ・エ・モワ」で ・・・。

「トワ・エ・モワ - 白い波」

          

そうですね、「ヒデとロザンナ」ででも聴いてみましょうか ・・・。「出門英」の音楽センスの良さを改めて認識させられます。

「ヒデとロザンナ - 白い波」
 
          
by knakano0311 | 2013-09-12 17:25 | サウダージ | Comments(0)
<< スウェーデン美女シンガー図鑑(... あの時は ・・・ >>