大屋地爵士のJAZZYな生活

カテゴリ:おやじの遠足・街歩き( 127 )

かって浪花は海運の街だった ~大阪・南港界隈の今・・~

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(写真;手前がATC、奥にそびえるのがWTC)

今日のおやじの遠足は、今大阪では話題のスポット、住之江区の埋立地、咲洲(さきしま)、南港です。何が話題かって? 就任以来過激な発言で注目を浴びている橋本知事が、老朽化した現在の大阪府庁舎を、建替えるのでなく、ここにある大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTC、愛称コスモタワー)に移転させる方が安上がりだけでなく、大阪を活性化させるためにも有効だとして、賛否両論、色々な波紋を巻き起こしているところです。

ATC(アジア太平洋トレードセンター)は、大阪で有数の規模を持つ複合施設。敷地面積;68,000㎡、建築面積;48,000㎡。1994年開業。本来は貿易のためのトレードセンターとして大阪市により総事業費1,465億円で建設された。施設全体が保税地域に指定されていることから、貿易拠点となることが期待されていた。しかし、高い賃料や市内からのアクセスの不便さなどから入居企業が相次いで撤退した。現在は、保税地域としての機能はほとんど使われず、アウトレットモールの運営などで活性化のてこ入れを図っているが、とても効果があったとは思えない。まさに、ウィークディではあったが閑古鳥が鳴いている有様。

WTC、コスモタワーは、高さ256.0m、地上55階・地下3階建ての西日本第2位である超高層インテリジェントビル。総事業費は1,193億円。延べ床面積 150,000 m²。 1995年に完成したが、ATCと同様理由で、オフィス入居の予測が大外れ。そこで、大阪市は市役所にあった行政部門のうち港湾局・水道局・建設局などを多数移転し入居させた結果、テナントの7~8割は役所とその外郭団体となってしまった。「大阪市役所南港庁舎」或いは「大阪市立バブルの塔」と揶揄され、TVのワイドショーなどで税金の無駄使いの箱モノの定番として登場する始末。

もともと、国際都市大阪の地位を確固たるもの?にしようと、ベイエリアの咲州、舞洲、夢洲3つの人工島を開発して、咲州には、コスモタワーをランドマークとする臨海副都心計画が2兆2千億円もの巨費を投じて進められ、舞洲(まいしま)には、あの夢と消えた2008年の五輪会場として開発、夢洲(ゆめしま)にはその選手村などを造成し、そのあとは住宅地などを建設する予定だった。ここまでは、東京の「お台場」、横浜の「港みらい」などと、同じ様な土建屋・ハコもの的構想であったが、どうして結果が大きく違ったものになってしまったのだろうか。WTCは2003年6月に債務超過になり、同じ大阪市の第三セクターであるATCなどと合同で計580億円の債務超過を抱えているという。大阪地盤沈下、まさに、その象徴であるエリアなのだ。

私がまず単純に感じるのは、箱物によって国際都市の地位を確固たるものにさせようなんて発想が基本的に間違っているのだ。吉本や阪神タイガース、カラオケなどの大阪発のヒット商品を見ればわかるように、人や文化やものづくりなどは、大阪独特の「ひと」あっての話である。そこが「ハコ」に有機的に絡んでこないと・・・。さらに、アクセスが極めて悪いことが致命的な欠陥である。大阪中心部から極めて近い距離にありながら、中心部や周辺都市から乗り換えなしの直通電車でいけない。河をまたいだすぐ近くには、ユニバーサル・スタジオや超大型水族館「海遊館」、「サントリー・ミュージアム」、「京セラ大阪ドーム球場」など集客力の高いスポットがあるが、それらを有機的に結ぶ交通アクセスがまったくないのだ。これでどうやって集客できると言うのだ。お客さんの視点で物事を考えていなかった証拠である。総合的な都市開発企画における行政の発想の貧しさを感じさせるのである。そしてそれらの背景には、犬猿の仲とまで言われた「大阪府」と「大阪市」の確執があろうし、オリンピック招致のときの国の冷淡さなどもあっただろう。それに加え私鉄各社間の思惑も絡んだであろう。私鉄相互間の乗り入れや新線開発が殆ど出来ていないので、首都圏に比べ、不便この上ない。役人の縄張り意識が働くかぎり、総合的な都市開発などできると思われず、「お台場」や「みなとみらい」との彼我の差にため息が出そう・・・。

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しかしATC、WTCは、私にとっては想い出のある建物である。かって、私がビル設備システムの企画開発を担当したとき、最初に手がけたシステムを納入した建物だからである。そんな私のサラリーマン生活におけるメルクマーク的な建物。そんな係わりもあって、かってATCの建築設計者と対談したときの忘れられない言葉ががある。「大阪は海に向かって開けた街、海とのかかわりで発展してきた町だから、ATCは海から見て一目でその存在と意義が分かるような建物にしたかった。」
写真にあるように、南ヨーロッパを思わせるような、日本的でないそのデザインと色使い、エクステリアは今でも色褪せない。西日本各地へ出航していく大型フェリー、時折係留されている実習用大型帆船「あこがれ」。私はここへくると何時も、バルセロナの港や丘の上の「ミロ美術館」をおもいだす。

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かって海運によって発展した大阪の歴史は、ATC近くの大阪市立の海洋博物館、「なにわの海の時空館」によって観ることができる。総工費176億円、2000年開館。建築は世界的に著名な建築家ポール・アンドリューの作品で、ユニークな4208枚のガラスのを用いたドーム型の建物。エントランス棟とドーム型の展示棟があり、両棟は海底トンネルで繋がっている。

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目玉展示は、復元されて実際に大阪湾を帆走した菱垣廻船「浪華丸」の実物模型(全長30m)。それに館内は、 古代・難波に都があった時代からの大陸、朝鮮半島、アジアとの海上文化交流史や天下の台所と称された江戸時代の大坂の繁栄と北前船、菱垣廻船など海運の歴史、明治時代に大阪にもあった外国人居留区など興味深くわかりやすい展示が一杯。ここの展示に大阪の活力再生のヒントがいくつも隠されているような気がする。ただ悲しいな、お客さんが少ないんですよ・・・。



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そして、和みの時間を求めて「海の時空館」の隣の野鳥園へと。ここ大阪南港一帯は、古くは住吉浦と呼ばれ、豊かな自然に恵まれ、日本でも指折りの渡り鳥の楽園としても良く知られていた所です。南港一帯はシギやチドリをはじめ、ガンカモ類が渡来し休息し餌を採る、日本における渡り鳥の重要な生息地であったという。総面積19.3ha、大阪南港野鳥園は港湾関係整備事業の一環として、おもに大阪湾岸一帯に生息する野鳥の保護を目的として設置されたものです。
人間界の問題ごととは無縁に、野鳥園の干潟では、渡来した渡り鳥や水鳥が、ただ無心にえさを漁ったり、羽を休めてのんびりと浮かんでいた。


ATCが想起させるバルセロナの丘に吹く風を、いま一度肌に感じてみたい・・・。日本有数のフュージョン・ギタリスト「増尾好秋/バルセロナの風」。降り注ぐ太陽の光と地中海からの陽気な風を感じることの出来るアルバム。

バルセロナの風(紙ジャケット仕様)

増尾好秋 / ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル


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by knakano0311 | 2009-03-17 23:04 | おやじの遠足・街歩き | Trackback | Comments(0)

神戸栄町通り界隈をあるく   ~多彩な個性が集うレトロな街~

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(写真;神戸市営地下鉄海岸線のみなと元町駅。明治41年(1908年)竣工の旧第一銀行神戸支店(辰野金吾設計)の外壁を利用。Wikipedia より。)



日増しに暖かくなるにつれ、コートを脱ぎ、スニーカーでの街歩きが楽しくなる季節になりました。今回の「おやじの遠足・街歩き」は、最近ちょっと気になっていた街、個性的なオーナーショップが多く集まっていることで評判の神戸・栄町通り界隈の散策。少し小雨模様でしたが、しっかり楽しんできました。

栄町通は元町の南側、旧居留地の西側に隣接するエリアで、元町商店街に平行する形で位置しています。明治時代、神戸港ともほど近いため、このエリアは、銀行や証券会社などが立ち並ぶなどして、神戸随一の金融街として、とても栄えていたそうです。「東洋のウォール街」とまで呼ばれていたとか。戦後、三宮に中心が移ってしまったが、近年まで銀行や保険会社等の重厚な近代建築が並んでいたという。しかし、1995年の阪神淡路大震災の発生でその大半が被災し、解体されてしまった。跡地は、マンションやパーキングとなって沿道の風景が一変して現在に至っているが、古い建物の一部は残され、写真のように当時の名残を伝えています。

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栄町通りの一筋南の「乙仲(おつなか)通」。ここには、神戸港がにぎわっていた時代に海運業者などが入居していた重厚でレトロなビルがまだ多く点在しています。また再開発の波が及ばなかったので、路地裏なども当時のままです。そしてここ数年、そのレトロなビルを再利用した個性的なショップやカフェが続々と登場し、新たな文化発信エリアとして、注目されている地域。レトロでまったりした街全体の雰囲気をうまく利用した、雑貨店、ブティック、など個性的なオーナーショップが集まっています。一歩ビルへ入ると、一階は輸入雑貨店、2階はカフェ・ダイニング、チェコの絵本屋、隣りは古道具屋など、「次は何のお店かな?」と探訪したくなるような、「びっくり箱」、「おもちゃ箱」みたいな楽しさ一杯の個性溢れる街だった。ウィーク・デイながら結構若いカップルや女性客が多く、トアロードの西側エリアと並んで、新しい賑わいを創りだしているように感じた。とはいえ、我々シニアでも決して場違いな街ではありませんよ、念のため。そして、オーナーは、多分若い人たち。その元気や感性、個性、起業精神にすっかり共感、うれしくなってしまった。

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そんなとあるビルの地階で見つけたオシャレな音楽セレクト・ショップ「disques dessinee(ディスク・デシネ)」。普通のレコード・ショップとは違って、アナログ・レコードやCDを白木の棚にならべギャラリーのようなお店。JAZZやロックなどジャンルを問わず、メロディ重視の視点から、スタッフがセレクトしたアルバムが並ぶ。そういえば、アナログレコード全盛の時代はジャケットを飾ることも楽しみの一つだったっけ。お客さんと対話し、お客さんの好みを聞いてお薦めしてくれるというお店の対応も感じがよかった。ヨーロッパ・ピアノ・ジャズに入れ込んでいる私へのお店の女性のおすすめで買ったアルバムは、以前『ティレグィナン』を、このブログでも紹介したスエーデンの女流ピアニスト、「モニカ・ドミニク」の極上のワンホーン・カルテット・アルバム「Bird Woman」。自由に空を飛ぶ鳥のようにゆったりと緩やかに、時には伸びやかにスインギーに演奏する「モニカおばさん」。何と言っても興味深いのは、前述のトリオ作品「Tillagnan(ティレグイナン)」の冒頭でも演奏している「Dedication (Tillagnan)」が、このアルバムでは、ソプラノ・サックスを加えてより切なく淡く優しく奏でられていること。

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Monica Dominique Quintet - Bird woman

こちらはトリオの方ですが ・・・・。

「Tillagnan I (Dedication I) - Monica Dominique Trio」

          

モニカ・ドミニクのアルバム「ティレグィナン」が、このお店からリリースされていることを、帰宅してジャケットをみて初めて知ったのだが、この「ディスク・デシネ」といい、「澤野工房」といい、良質の音楽を提供しようと、頑張って関西から発信していることに心からエールを送りたい。

寺嶋靖国著「JAZZピアノ・トリオ名盤500」(だいわ文庫)、と「播磨屋本店」のせんべい「はりま焼き」を耳だけでなく、眼と口へのお土産に買い、帰宅。時折小雨まじりの日であったが、大満足の「おやじの街歩き」であった。
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by knakano0311 | 2009-03-08 10:29 | おやじの遠足・街歩き | Trackback | Comments(2)

時を超えて  ~ アルフォンス・ミュシャに憧れて ~

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(写真;《ポスター:サラ・ベルナール》1896年 カラーリトグラフ 堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館HPより)

「おやじの遠足」。今日は車で40分ほど堺まで足を伸ばしました。お目当ては、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館での企画展示、「ミュシャと世紀末芸術」。「アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)」は、19世紀末から20世紀初頭にかけて花開いたアール・ヌーヴォーの代表的画家。私は学生時代に、ミュシャには、彼とほぼ同年代で、画家、詩人、小説家でイギリス・ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する「オーブリー・ビアズリー」と並んで、ずいぶんと憧れていた画家の一人でした。最近、ミュシャの美術館がここ堺市にあると知ってびっくりし、ぜひ観たいと思っていた美術館です。ここに集められているミュシャの作品は、関西ではよく知られている「カメラのドイ」の創業者である土居君雄氏が、ミュシャの知名度がさほど無かった頃から個人的に気に入り、渡欧する度に買い集めた「ドイ・コレクション」がベースだそうだ。土居氏の他界後、遺族は、コレクションが散逸してしまうのを憂慮して、堺市に寄贈されたようである。その後、ミュシャの活躍した「時代から100年後、この美術館が開館した。

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(写真;《『ジスモンダ』のポスター》1895年 カラーリトグラフ アルフォンス・ミュシャ館HPより)

「アルフォンス・ミュシャ」。ミュシャは、チェコで生まれ、25歳のときミュンヘン美術アカデミー入学、卒業し、28歳のときには、パリにてアカデミー・ジュリアンで美術を学んだ。彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した、ポスター史に残る名作「ジスモンダ」のポスターである。威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした。この成功の後も、ミュシャは生涯を通してたくさんの女性たちを描いた。その表現からは、女性への賛美や思慕、時には畏怖さえも読み取ることができる。彼にとって女性は、人間の内面を見つめるための重要なテーマの一つになっていったという。



やがて、故国であるチェコに帰国して活動を続けたが、1939年3月、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体され、プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕された。「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」という理由からだった。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、またそれは79歳の老体には耐えられないものであった。その後ミュシャは釈放されたが、4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じた。

この美術館には、ポスターや装飾パネルの代表作など約100点の作品が所蔵されており、ミュシャ・コレクションの美術館としても、世界的に有名だそうだ。

館内に入るなり、すっかり魅了されてしまった。しなやかな曲線と美しい色彩、装飾性の高い緻密なモチーフ、瑞々しい女性の肌の光沢、豊かな表情、ジャポニズムの影響を受けたとも言われる大胆な構図。花や宝石などをテーマにした美しい連作・・・。二人で言葉もなく見入ることしばし。妻もすっかりお気に入りの「いもたこなんきん」美術館になってしまったことは間違いなし。心に余韻を残しつつ、再来館を約束してアルフォンス・ミュシャ館をあとにした。

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(写真;与謝野晶子文芸館HPより)

そして、同じ建物の1階下では、与謝野晶子文芸館が常設展「与謝野晶子 生涯と作品」(第3期)を開催中。
「与謝野晶子(1878-1942)」。彼女は、ここ堺出身で、近代文学史を代表する歌人として有名。『みだれ髪』をはじめ生前には23歌集を出版している。また、歌だけでなく「君死にたまふこと勿れ」などの詩や『源氏物語』の現代語訳を手掛け、女性の権利に焦点をあてた評論や文化学院の創設に関わるといった教育活動にも力を注いでいました。また同時に、与謝野鉄幹(寛)の妻であり、11人の子どもを生み育てた母でもあり、たくましい日本の母といった側面もあった。そんな彼女の生涯を自筆の歌幅、色紙、また愛用の品々などとも一緒に展示している。

明治33年(1900年)に行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と親しくなり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、処女歌集『みだれ髪』を刊行し浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」というあの有名な歌にちなみ、「やは肌の晶子」と呼ばれた。

館内では晶子を「愛の歌人」と位置づけ、ちょうどバレンタイン・デイにちなんだ色々な企画を行っていたのが新鮮。私は、愛の歌ではなく、まだ冬が立ち去らない、ちょうど今日のような早春の日を詠った歌に魅かれた。

 ゆるやかに 淡雪の矢を放ちくる 春の御空と 思ひけるかな  (晶子 立春)

1900年ごろ、いわゆる「世紀末の時代」とは何だったんだろうとあらためて思う。ヨーロッパでは、産業革命や科学技術の目覚しい進歩の成果としての「パリ万博」が開催された年。そんな急激な社会の変化に対する不安や疑問も内包していた爛熟した社会情勢を反映したかのように、パリ派、印象派、アール・ヌーヴォーなどが一斉に花開いた時代。またジャポニズムなど異文化への関心も高まった時代。日本では雑誌「明星」などが発刊され、晶子が『みだれ髪』を刊行し、女性が主張を始めた時代。前回の「富岡鉄斎(1837-1924)」もこの時代の人でしたね。明治になって欧米の文化が流れこみ、その自由闊達の精神が、一定の醸成の期間をおいて日本の文化の中に湧き出してきて、それがやがて「大正デモクラシー」、「大正ロマン」へとつながっていった時代と見ることもできよう。

そんないくつかの思いを抱きながら、帰りにはすぐ近くの「仁徳天皇陵」をみて家路に。今日の「おやじの遠足」は、ミュシャに憧れた学生時代、或いは世紀末パリへのタイム・トラベルでもあった。 

世紀末から40年ほど経ったパリに彗星のごとく現れた一人のミュージシャンがパリを魅了した。「ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt 1910年~1953年)」。ジプシーの伝統音楽とスウィングジャズを融合させた「ジプシー・スウィング(マヌーシュ・スウィング)」の創始者。ジプシーとして、幼少の頃からヨーロッパ各地を漂流して過ごし、そこでギターやヴァイオリンの演奏を身につけて育った。18歳のときにキャラバンの火事を消そうとして、左指2本の動きを失う大火傷を負ったが、そのハンディを奇跡的に乗り越え、独自の奏法を確立。後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を、その短い生涯(享年43歳)の中で幾つも発表した。
この簡単な来歴をみただけでも、彼の数奇な人生と短い生涯に凝縮された音楽性が想像できる。1949年という第二次大戦後さほど日が経っていないローマでの録音、ジャンゴが亡くなる4年前のステファン・グラッペリのヴァイオリンとの貴重なセッション。

ジャンゴロジー~スペシャル・エディション
ジャンゴ・ラインハルト / BMG JAPAN
ISBN : B00008CH8W
スコア選択:

「Django Reinhardt - Minor Swing」

          
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by knakano0311 | 2009-03-01 22:04 | おやじの遠足・街歩き | Trackback | Comments(0)

おん眼の雫・・・・  ~奈良・西ノ京を歩く~  

春の日差しを一杯に浴びたところで、平城宮址を後にして、西ノ京へ。

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(写真;死の2ヶ月前に制作されたといわれる国宝・鑑真和上座像。文芸ジャンキー・パラダイス
http://kajipon.com より借用)

「唐招提寺」。南都六宗の一つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基は鑑真和上(688-763)。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られ           るようになった中国・唐出身の僧・鑑真が晩年を過ごした寺。和上は、上海の北、長江河口の揚州江陽県の生まれ。14歳で出家し、律宗・天台宗を学ぶ。日本での律宗の受戒のため、日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗し、視力も失った。752年、6回目の渡航で薩摩坊津に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。

日本で肖像彫刻をされた最初の人物で、その肖像彫刻は、松尾芭蕉が、「若葉して おん眼の雫 ぬぐはばや」と詠じた像でもある。なんというお顔であろうか。人生が凝縮されたこのお顔は見る人に感動を与える。その和上を偲んで、境内のかしこに中国は杭州からつたわったという、中国で古くから愛されてきた金木犀「桂花」が植えられ、春になるとピンクの花と心地よい香りに境内は包まれる。

なんといっても、井上靖「天平の甍」は誰しも一度は読んだことのある名作。
天平の昔、荒れ狂う大海を越えて唐に留学した若い僧たちがあった。故国の便りもなく、無事な生還も期しがたい彼ら。在唐二十年、放浪の果て、高僧鑑真を伴って普照はただひとり故国の土を踏んだ・・・・。
そして、「天平の甍」は、我が母校の先輩、熊井啓監督で映画化された。 普照を「中村嘉葎雄」、栄叡を「大門正明」、鑑真は「田村高廣」が演じていた。

天平の甍 (新潮文庫)

井上 靖 / 新潮社



国宝・金堂の平成の大修理を行っている唐招提寺を後に、平城京時代からの古道と思われる道を南へ薬師寺へと向かう。この道はもう何回も訪れた道。道すがら、運よく開いていた和布はぎれのクラフトの店「はぎれ屋」で、妻はちょっとオシャレで可愛い眼鏡ホルダーとアクセサリーを求めた。店主の女性は、客そっちのけで店の前で地中深く張った木の根と格闘中。こんな気取らない古都奈良に暮す人たちと会うも魅力の一つ。

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写真は、東塔(国宝)。現在寺に残る建築のうち、天平年間にさかのぼる唯一のもの。明治時代に訪れたフェノロサが、この塔を指して「凍れる音楽」と表現したとされる。

薬師寺は、南都七大寺のひとつに数えられる寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。本尊は薬師如来、開基は天武天皇である。『日本書紀』によれば、天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したのが薬師寺であるとされる。その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。1998年にはユネスコにより世界遺産に登録されている。

奈良時代の仏教彫刻の最高傑作の1つとされる本尊「薬師三尊像」を安置し、1976年の再建の金堂。 2003年の再建の大講堂、1981年に伝統様式・技法で再建された西塔などあまたの伽藍が再建された。これらの再建には、国は当てに出来ないと自らの力で資金調達をするため、写経勧進や全国を回る講演をした高田好胤元管主の力が大きいという。私も入社時の研修に始まり、何回も高田管主の講演を聞いたことがある。

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金堂には、中尊は薬師如来、脇侍に日光菩薩と月光菩薩を配した国宝・銅造薬師三尊像を安置。同じく、奈良時代の金銅仏の代表作の1つである国宝・銅造聖観音立像、それを安置した鎌倉時代・弘安8年(1285年)の建築の国宝・東院堂など国宝、重文を あまた見ることが出来る。また伽藍の北側に建てられた「玄奘三蔵院」には、日本画家・平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2メートル、長さが49メートル、13枚からなる「大唐西域壁画」があり、何年か前の完成公開で訪れた折は大変な賑わいであった。


その「玄奘三蔵院」に通ずる小道の紅白の梅は、もう満開に・・・。そして、東大寺二月堂で始まる「修二会(しゅにえ、お水取り)」ももう間近。

秋篠寺に始まる古都奈良の「修学旅行」的な一日でした。こんな日は、「Beleza/ベレーザ」の代表作のこの2枚があれば、おやじの遠足、春のドライブはもうご機嫌。ささやくような、くすぐるような、シルキー・タッチの歌声、その容姿とあいまって世のオジサンたちの心をつかんだ「Beleza」の歌姫、「ガブリエル・アンダース」。
ボサノヴァ、ジャズ、ポップス、サルサ、レゲエ、ファンクなど多くのジャンルをミックス・ブレンドし、彼女独自のボサノヴァ・カラーに染め上げてしまうのが特長で、「SONIA」などに代表されるいわゆる「フェイク・ボサノヴァ」の元祖として、根強い人気をもっている。「ジョビン・トリビュート・アルバム」はジョビン誕生80周年の去年、待望の再リリースがされた。

ジョビンに捧ぐ

ベレーザ / アルファレコード



ファンタジア

ベレーザ / アルファレコード



ボッサ・ベレーザ

ガブリエラ・アンダース / ビクターエンタテインメント



「Gabriela Anders ‐ Amapola」

          
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by knakano0311 | 2009-02-14 14:01 | おやじの遠足・街歩き | Trackback | Comments(0)

青によし奈良の都に・・・・ ~平城宮跡を歩く~

40年ほど前に入社したての頃、奈良に遊びに来たことがある。近鉄電車が西大寺の駅に着く直前、車窓にとでつもない広大な原っぱが広がり、何なんだと訝ったことがある。それが、土地を取得したが、未整備の平城宮跡地であったのだ。その強烈な印象はいまだに脳裏に焼き付いている。その後、朱雀門、東院庭園、遺構展示館、平城宮跡資料館などの整備がすこしずつ進み、現在は来年の遷都1300年に向けて、第一次大極殿の復元が進んでいる。

早春の暖かい日差しのなか、秋篠寺を後にし、世界遺産・平城宮跡へと向かった。

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710年、藤原京から移された都・平城京は、途中、恭仁京や紫香楽宮へ遷都された時期を除くと、784年の長岡京遷都にいたるまで、日本の政治の中心であった。平城宮は、平城京の北端に置かれ、広さは120万平方メートル余、甲子園球場約30個分の広さ。天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙から成り、 周囲は5m程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門はじめ豪族の氏名にちなんだ12の門が設置されていた。 東端には、東院庭園がおかれ、宴などが催された。 また、この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。
これらの復元遺構や資料館などはすべて無料で見学できる。

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(写真は平城宮第ニ次大極殿跡地。背景に見えるのは遷都1300年に向けて復元建造中の第一次大極殿。)

794年の平安京遷都後は放棄され、農地となっていたが、明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、以後保存運動が起こり、1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、平城宮址は、1922年に国の史跡に指定された。1960年代に私鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動がおこった。その結果、現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され、奈良市のほぼ中央に位置しているにも関わらず、広々とした野原として保たれている。

まず第二次大極殿址に立ってみる。暖かい日差しのせいもあるだろうが、そのどこまでも広く、伸びやかな景観に、心が実にゆったりとなる。東は若草山、そのふもとの二月堂、東大寺、南は朱雀門、その彼方の二上山、南東には大阪・河内平野を象徴する生駒山が一望の下に見渡せる。明日香の狭い地に築かれた藤原京を離れ、この広い奈良盆地に都を築いた当時の人々の感慨が伝わってくる。

そして遺構展示館へ。発掘調査で見つかった遺構をそのまま見ることができるほか、第一次大極殿や内裏の復元模型を展示している。建築技術、木材加工技術、土木技術など当時の都づくりを支えていたその技術に驚嘆した。これらの技術はすべて半島からの渡来した技術によるものであると言う。技術だけが伝播してくるわけではなく、当然人の往来があったのだ。政治、文化、宗教、工芸、建築などのあらゆる面で知識や技術を持つ半島からの大量の渡来人が政治の中枢、或いはテクノクラートとして行政のトップに位置していたことは容易に推測できる。したがって古代日本において、朝鮮半島の政治情勢が色濃く影をおとしていたと考えれば、かなり納得できる歴史の部分もある。例えば「壬申の乱」。672年に百済系の天智天皇の子、大友皇子に対し、異母弟である新羅系の大海人皇子(のちの天武天皇)がおこした日本古代史最大の内乱であるが、一説に言われるように、百済vs新羅の影が尾を引く、政権争奪の戦いと考えれば理解も可能であろうし、日本国中に地名や文化、風習などでこれだけ古代朝鮮の痕跡が窺えることも説明がつく。
遺構展示館で、ボランティアで説明をしてくれた方は、70歳半ばを超えてもなお、かくしゃくとした百済の血を引くという在日朝鮮人の方。その歴史への情熱には感嘆。

そして平城宮跡資料館へ。794年、京都に遷都されて以後、百年も経ないうちに田畑となり、その下に奈良時代の遺構・遺物が地中に取り残された。奈良市で一番低い地形が幸いして水位が高く、土中にある木簡などが風化せず墨跡もあざやかなまま保存されたという。木簡が平城宮跡で最初に発見されたのは1961年。その時出土した39点の木簡は2003年3月に重要文化財指定を受け、それから全国で22万点を越える木簡が見つかり、そのうちの7万点が平城宮跡で見つかったという。続日本紀などの古記録に書かれている記述が木簡で裏打ちされたり、木簡抜きには古代史の解明はここまで進まなかったというのが実状です。
この木簡などが「埋蔵文化財」ということで1998年に奈良市の東大寺・興福寺・春日奥山・正倉院などとともに世界遺産に指定されました。

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(写真は東院庭園)

平城宮跡の西のはしにある資料館では、これまでの発掘調査・研究の成果をもとに、平城宮をわかりやすく展示しています。ここでも思いをこめて説明してくれた方は75歳のボランティアの方。シニアの方の情熱や思いが文化財の保護に、一役も二役もかっているのである。なんと素敵なことだろうか。

「わっしょい」という言葉が古代朝鮮語の「ワッソ」。「なら(奈良)」という言葉そのものが「国」と言う意味だとか、狛(こま)犬は高麗(こま)犬であるなどと言うことを知ったのは、日本古代史学に疑問を呈した歴史紀行シリーズ、金達寿著「日本の中の朝鮮文化シリーズ」であった。高麗氏族による祖先の祭りを起源とする祗園祭。新羅から渡来した、太泰・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。関西は、著者の想像をはるかにうわまわる濃厚・濃密な古代朝鮮文化の宝庫だった・・・。
 

日本の中の朝鮮文化―山城・摂津・和泉・河内 (講談社学術文庫)

金 達寿 / 講談社



司馬遼太郎の人気シリーズ「街道をゆく」。第2巻は、初の海外紀行で、訪ねる地域は、朝鮮半島。司馬氏は、加羅、新羅、百済の旧跡をたずね、日本と韓国の交流の歴史を読み解いている。書かれたのは1971年で、日本の植民地支配に対する恨みの感情が根強く残る日韓関係の暗黒の時代。その時代に司馬は、民族的には同じルーツを持つ日韓関係をよりよくしたいという願いがよく分かる。

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

司馬 遼太郎 / 朝日新聞社



称徳天皇は、東院庭園に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催したという。池、橋、築山、石組中の島、小石を敷き詰めた汀。この日本庭園の原型となる庭園の館で催されていた宴にはきっと雅楽が演奏されていたのでしょう。

雅楽〈天・地・空)~千年の悠雅~
東儀秀樹 / / 東芝EMI
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by knakano0311 | 2009-02-14 00:26 | おやじの遠足・街歩き | Trackback | Comments(0)

天女の印 ~ 早春の秋篠寺を訪ねて ~

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あまりにも暖かでいい天気なので、帰省してきた息子を奈良までおくる用事の後、西大寺、西ノ京あたりを散策しようということになりました。我が家から、車で小一時間、息子を送ってから、まず訪れたのは「秋篠寺」。「伎藝天」で知られたお寺ですね。かって30年ほど前に訪れていたがお堂の佇まいなどは、もうすっかり忘れていました。

「秋篠寺」の草創は、光仁天皇の勅願とか秋篠氏の氏寺であったなどと言われていて、はっきりしないらしいが、宗派は創建当初の法相宗から現在は単立宗となっている。 「東塔・西塔」などを備えた伽藍規模からも、官寺並みの大寺院だったらしいが、平安時代に兵火により、伽藍の大半を失い、創建当時の大寺の面影は残念ながら今は偲ぶことができず、小ぢんまりながら静かな佇まいの寺となっている。

平成2年のご結婚後、陛下から皇室ゆかりの地名に因んだ宮号を賜った「秋篠宮」様。その妃殿下である「紀子さま」の横顔が、「伎芸天像」に似ておられるという評判から、ある時期多くの人が秋篠寺に訪れたそうである。またこの「伎芸天像」、女性、特にキャリアーウーマンには大変な人気なんだそうです。

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写真は仏像net HPより

駐車場から東門を抜け、 苔の翠がそれは鮮やかな木立を抜けると、すぐに国宝の本堂(創建時は講堂)。その中に諸仏と並んで、伎芸天はひっそりと安置されていました。 

「伎芸天(技芸天とも)」は、仏教守護の天部のひとつ。容姿端麗で伎芸の才に優れた天で、仏典などによれば、大自在天(=シヴァ神)が天界で器楽に興じている時、その髪の生え際から誕生した天女。そのため、芸道の上達を目指す人々の信仰は厚いそうだが、梵語名は不詳で謎の天女であるという。そして、わが国に現存する像は秋篠寺の天女像ただ一像のみであるという。
現存の像は、頭部のみが平安時代の造立当時のもので、首以下は鎌倉時代の補作によるものであり、造立当時のお姿は不明。「経軌」という「仏像の形マニュアル」によれば、左手に一天華を持ち、右手は下に下ろし衣を捻ると記述されており、現在の姿とは大きく異なっているため、「伎芸天」でない可能性もあるそうだ。しかし、秋篠寺を訪れた人々は、そんなことはどうでもよく、すっかり伎芸天のとりこになってしまうらしく、広隆寺の弥勒菩薩像などと同様、熱狂的なファンが多いようである。

本堂内、末座の位置に伎芸天はひっそりと安置されていた。仏教守護の天部の一人であるから、末座に安置されているのは当たり前なのだ。中央に「薬師如来」、向かって左右に「月光・日光菩薩」、さらに左右に「薬師12神将」、さらに左右に「地蔵菩薩・不動明王」。そして「薬師如来」から最も遠い左端の末座に「伎芸天」、右は「帝釈天」。

伎芸天、結構大きし、肉付きも豊かであられる。真っ先に気がつくのは、そのうつむき加減の優しい目線。「俵万智」が魅せられたあの角度の目線だ。笑みをかすかにたたえ、見上げながら、向き合う人をごく自然に安らかな気持ちに導くようだ。

  見上げれば同じ角度に見下ろせる 伎芸天女その深き微笑み  (俵 万智)

そして、その指先。豊かな感情が、人差し指と小指を立てたままで、さりげなく内側に軽く曲げられた中指・薬指の指先からあふれ出てくるようである。右手は上に曲げられ、左手は掌を内側に自然に垂らされている。「しな(科)」と呼ぶにはあまりにも上品なその形、まさに「伎芸天」と呼ばれる由縁か。

  秋篠の伎芸天女の印むすぶ指  細々と空に定まる   (鈴木光子)

さらにかすかな腰のひねりによって、その上品な「しな」は、完璧に完成される。この微かな捻りにほのかな色気を感じる人が多いようだ。

  贅肉(あまりじし)なき肉置きのたおやかに み面もみ腰もただうつつなし  (吉野秀雄)

作造年代が違う首から上と下とをあわせた像であるがそんなことはまったく感じさせない。むしろつなぎ合わせた無名の仏師によって完璧で絶妙なバランスを持つ像が誕生したといっていい。
この美しい立ち姿の像・・・。これは本当に信仰の対象としての仏像として造られたのだろうか。無名の仏師の作造の思いはなんだったのであろうか。一篇の物語が出来そうである。そんなことを感じさせるくらいこの像は美しい。

  伎芸天女寒きしじまの夕にすら 匂ひこぼれて立たせ給へり  (松山千代)
  一燭に春寧からむ伎芸天   (青畝)

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つかの間の陶酔から覚めて、寺のすぐ近くに目立たずひっそりと構えられた「秋篠窯」にむかう。応対に出てこられた奥様に聞くと、先代が土を求めてこの地に窯を開き作陶を始めたとのこと。木立の中の苔の翠を思わせるような青磁の皿と茶碗を、日用使いにと求めた。そして秋篠を後に、来年遷都1300年を迎える平城京址へと向かった。

秋篠寺といえば思い出す小説がある。朝鮮半島の出自の作家「立原正秋」の「春の鐘」。
古陶磁器の美を探求する妻に裏切られた美術館長と夫に離縁された女が、大和路の四季をバックに織りなす恋愛小説で、主人公たちが人目を忍んで借りた一軒家が、ここ「秋篠の里」である。どろどろの不倫小説なのに、いつもの「立原正秋」特有の爽やかな印象と清潔感に満ちていて救われる。またこの小説は、蔵原惟繕監督によって映画化され、主人公の鳴海と多恵は、北大路欣也、古手川祐子が演じている。(VHSのみ)

春の鐘 (上巻) (新潮文庫)

立原 正秋 / 新潮社



「伎藝天」に強いてなぞらえるつもりはないが、我がミューズ「カサンドラ・ウィルソン/ニュー・ムーン・ドーター」をあげてみたい。もう何の説明も不必要はくらい、超有名なアルバム。彼女自身のセミヌードの姿も話題になった。冒頭あのビリー・ホリディの「奇妙な果実/Strange Fruits」から始まり、今まで聞いたことのない不思議なアレンジの「Moon River」でおわる「New Moon Daughter」。96年度スイングジャーナル誌選定ジャズディスク大賞ボーカル賞受賞の文句なしカサンドラ・ウィルソン最高傑作アルバム。

ニュー・ムーン・ドーター
カサンドラ・ウィルソン / 東芝EMI
ISBN : B00005GKDL
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「Cassandra Wilson - Love Is Blindness (恋は盲目)」

          
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by knakano0311 | 2009-02-12 00:34 | おやじの遠足・街歩き | Trackback(1) | Comments(0)

地域の歴史を楽しむ  ~多田神社あれこれ~

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私が暮す街に、清和源氏発祥の地であり、源満仲らを祀る「多田神社」がある。いつものウォーキングのコースをちょっと変えて「多田神社」へ参詣してみた。というのも、土、日曜日に、この「多田神社」宝物殿で国の重要文化財になっている多田神社文書492通から、足利尊氏の花押がある書状や徳川4代将軍、家綱の描いた絵など神社に代々伝わる約50点の公開が始まったからである。

この神社は、清和源氏の祖源満仲が天禄元年(970)に建立した多田院に由来し、10世紀後半、満仲は京都に近い猪名川流域一帯のこの地を開発するとともに、強力な武士団を形成した。満仲没後、多田院に御廟が営まれたことから、清和源氏に連なる鎌倉・室町・江戸の歴代幕府から「源家祖廟の寺」として崇敬を受けた。明治の廃仏毀釈の波を受け今のような神社となったそうだ。そんなことから歴代の徳川家などから多くの寄進を受け、また平成8年4月には、当時の両横綱「曙」、「貴乃花」が土俵入りを奉納したこともある。

満仲の長男頼光は、太田道灌、土岐源氏・明智光秀などにつながる「摂津源氏・多田源氏」、次男頼親は「大和源氏」、三男、頼信は後に鎌倉幕府を開いた頼朝、義経、為朝、室町幕府の足利尊氏、徳川家康などへつながる「河内源氏」として発展した。

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(写真は源家宝刀 鬼切丸 多田神社HPより)

そして、大江山の鬼を退治した「源頼光」、「渡辺綱」、あるいは金太郎こと「坂田金時」。能や幸若舞などに取り上げられた「美女丸・幸寿丸」伝説など幾多の伝説が語り継がれていて、ゆかりの旧蹟が近隣に点在しているので、格好のウォーキングやハイキングのコースになっています。

宝物殿で説明をしてくれた方は、近隣の歴史愛好家グループのメンバーで、私よりやや年上の
シニアの方。メンバーたちが交代で解説のボランティアをしているとの事。知的好奇心を満足させる活動の傍らで、ボランティアとして、活き活きと楽しみながら歴史の薀蓄(うんちく)を語るその姿にも大いに共感、拍手。

身近なわが町の歴史を小探訪したウォーキングであった・・・・。

また歴史探訪としては、隣町の猪名川町に豊臣秀吉の埋蔵金伝説で知られる「多田銀銅山」があるが、この話はそのうち機会があれば・・・・・・。



  
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by knakano0311 | 2009-02-02 20:31 | おやじの遠足・街歩き | Trackback(2) | Comments(0)

プリンシプル ~動乱の時代を駆け抜けた二人~

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写真左;撮影/濱谷 浩  (神戸大丸ミュージアム HPより)

左の写真は白州次郎の有名な写真。戦後まもないあの時代に、これほどTシャツとジーンズが似合う日本人がいたとはと有名になった一枚。


今年初めての「神戸街歩き」。お目当ては「白州次郎と白州正子展 -動乱の時代を美しく生きる-」と、南京町の「春節祭」。

戦後の混乱の中、凛とした姿勢でGHQとの折衝に臨み、GHQから「従順ならざる唯一の日本人」と恐れられ、戦後の日本復興に尽力した白洲次郎(1902-1985)。そして、彼の妻であり、能、骨董、かくれ里をめぐる旅のエッセイと、その抜きん出た美意識で世に知られる随筆家・白洲正子(1910-1998)の生き様や生活観を紹介しています。最近この夫婦への評価や共感がたかく、この展覧会もシニアの夫婦連れや妙齢のご婦人たちが多く訪れていました。

兵庫・三田(さんだ)の名家の出身である次郎は、身長180cmを超す日本人離れした風貌で、ケンブリッジ大学留学を通して、英語力と英国風マナーに精通。毅然とした内面を反映するように、スタイルにもこだわり、日本で初めてジーンズをはいた人物としても知られ、愛用のブランドは、ダンヒル、ロレックス、ヘンリー・プール、ターンブル&アッサー、ルイ・ヴィトン、イッセイ・ミヤケ、エルメスにまで及ぶ。これら 次郎が選び抜いて使った品々や愛用の洋服などが展示され、その生き方とあわせ、彼の「ダンディズム」にすっかり感心させられました。また無類の車好きで、イギリス留学中には、ベントレーやブガッティを乗り回し、「オイリー・ボーイ」(オイルにまみれるほどの車好き)と呼ばれていた。

終戦後は、吉田茂の側近としてGHQとの折衝に奔走。日本国憲法制定の交渉や、サンフランシスコ講和条約の発効まで、敗戦国・日本の冬の時代を、アメリカを相手に毅然とした態度を貫いた。吉田茂の退陣後は実業界に転じ、東北電力会長や、創設間もない日本テレビ等の役員や顧問を務めながら、戦後の日本の奇跡的な経済復興の立役者としても活躍したのである。

同時に、しゃれで「武相荘(ぶあいそう)」と名づけた東京郊外鶴川村に構えた自宅で、自身を「カントリージェントルマン」と称し、農作業や田舎暮らしを楽しむ優雅さも持ち合わせていた。そのふたりが過ごした旧白州邸武相荘の内部も展覧会では一部再現され、2人の強烈な美意識と個性が交差する中で極められた、魅力的な生活スタイルが覗える。

次郎が一貫して持ち続けた価値観は、「プリンシプル」。今の日本人に一番欠けているものかもしれません。人間や社会のすべての行動の原点、土台となる信条、原理原則。日本語に訳せば「筋を通す」というべきものだという。かって私が勤務していた会社に、創業者の制定した「7精神」というものがあり、スコットランド人の友人に「7 Spirits」と訳して説明したら、それは「7principles」というべきだと言われたことがあるのを思いだした。

そんな「プリンシプル」に貫かれた彼の語録から・・・・・・。
「プリンシプルをもって生きていれば、人生に迷うことはない。プリンシプルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔もないだろう。」
「我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない。」
「政治というのは、ここを右折禁止と決めることで、それを守り守らせるのが行政の仕事なんだ。ちっともわかっとらん。」
「ゴルフの上手なやつにろくな奴はいない。」(軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長時代、会員でないという理由で、時の総理田中角栄のプレイを断ったのは有名な話)

その極みは遺言。遺書には「一つ、葬式無用 一つ、戒名不要」。なんというダンディズム。

随筆家で、優れた審美眼を持つ正子は、明治維新の立役者である樺山伯爵の次女として東京に生まれ、女性で初めて女人禁制の能舞台に立ち、能を舞った人物としても知られている。
14歳でアメリカに留学。帰国後、18歳のときに、次郎(26歳)と出会い、お互いに一目惚れ、翌年結婚した。戦後は河上徹太郎、小林秀雄、青山二郎ら、昭和を代表する文化人との交流を通じて文学、古典、古美術の世界に傾倒し、彼らとの付き合いの中から吸収したものを発表し続けた。 また、稀代の目利きである正子の目は、ジャンルを問わず美しいものに注がれ、染め、織り、陶磁器、木工など様々な分野の職人とその技を愛した。銀座で経営していた染織工芸店「こうげい」では、そこで見いだされ、技を磨き、のちに人間国宝となった職人や、世界の頂点に立つようになるファッションデザイナーなど多くの匠を育て、世に送り出した。

そして、ふたりが過ごした「旧白州邸武相荘」の内部も一部再現し、食事のメニューや日常生活で使われた食器や調度品など、2人の強烈な美意識と個性が交差する中で極められた、魅力的な生活スタイルが展示されている。
確固たる価値観を持ちつづけ、厳しく、そしてしなやかに激動の時代を生きたふたりの生涯が、今でもなお、いや、今でこそ共感を得ているのだろう。(略歴はパンフレット参考)


白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)

北 康利 / 講談社



高度成長時代の観光ブームに背を向けるように、近江路を歩き回って、忘れ去られていた文化遺産をまとめて、エッセイ「かくれ里」として「芸術新潮」に連載をスタートしたのは1969年であった。
よし、春がきたら、正子の愛した近江のかくれ里へ車を走らせてみよう。

かくれ里 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

白洲 正子 / 講談社



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旧暦で節句を祝う中国では、旧暦のお正月を「春節」として盛大に祝う。この時期の中国は大量の爆竹が鳴り響き、怪我人が出るほどの大変な騒ぎ。北京では環状5号線の内側で「爆竹禁止」の条例が出るほどです。そして、祝い事には欠かせない龍や獅子が舞い踊り、大いに賑う。

今年の春節は「1月26日」。神戸・南京町でも旧暦の正月に合わせ、1987年(昭和62年)から「春節」を「春節祭」として開催が始ったそうだ。その後、昭和天皇崩御の年と阪神淡路大震災の年の2回は中止となったが、2009年は23年目21回目の開催となります。南京町全体が春節を祝う飾りつけ一色になり、獅子舞、龍踊り、京劇など色々な中国芸能やパレードが繰りひろげられます。写真は中国風獅子舞(南京町HPより)。元来、獅子は想像上の動物であり、一説には神々の宮殿にいる天龍が怒って町や村を破壊しないように宮殿の前で守る役目を持つそうだが、日本の獅子とはまるで違ったカラフルでユーモラスな形をしています。

英国風のダンディズムと侍の気骨を持った日本人の生き様に触れ、中国の祭りを楽しんだ一日。これだから神戸は楽しい。

そして帰宅後、夜観たTVはNHK「美の壺」であった。テーマは「かな文字」。

NHK「美の壺」ブルーノート・コレクション

オムニバス / EMIミュージック・ジャパン



「美の壺」のオープニングは「モーニン/ Moanin' 」。

「Art Blakey & the Jazz Messengers - Moanin' 」

          
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by knakano0311 | 2009-02-01 17:04 | おやじの遠足・街歩き | Trackback(8) | Comments(0)

駅 トワイライト・タイム ・・・・・

10月19日に京阪電鉄の中之島線が開通した。首都圏での新線の開通はさほど珍しいことではないが、地盤沈下にあえぐ大阪にとって、この新線の開通は本当に久し振りで、活性化への起爆剤として期待されている。大阪に土地勘のない人には、分かりにくいでしょうが、この新線は、京阪本線の天満橋駅から分岐し、なにわ橋駅、大江橋駅、渡辺橋駅、終点中之島駅までの中之島の地下をはしる路線です。

中之島(なかのしま)は、大阪のど真ん中、大阪市北区、堂島川と土佐堀川に挟まれた、東西約3km、面積約50haの細長い中洲で、内山田洋とクール・ファイブの「中の島ブルース」などで歌われているところ。

その昔、大坂が天下の台所と言われた江戸時代は、旧淀川の堂島川や土佐堀川の水運を利用する為に、各藩の蔵屋敷が立ち並び、ここに全国各地の物資が集まる様になった。明治時代になると、これらの蔵屋敷は払い下げられ、大坂の商業やビジネスの中心としての役割だけでなく、図書館や公会堂等の文化施設や大阪帝国大学(現・大阪大学)を始めとする学校や病院も建設され、近代大阪においては情報と文化の発信地でもあった。そこにある中之島公園は、都心部の貴重な公園となっており、バラ園が有名。またイベントも数多く行われており、中之島祭りや光のルネサンスは毎年開催されている。

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[左の写真はブログ「ゆるっと。しゃきっと。」より]

また、天満橋から中之島線に入ってからの最初の駅となる「なにわ橋駅」の出入り口のデザインは大阪の活性化に奔走する有名な建築家・安藤忠雄氏の設計である。これを観たかったので早速帰宅途中、ちょっと回り道をしていってきました。このなにわ橋駅近辺には、中央公会堂、中之島図書館、日本銀行大阪支店などの歴史的建造物や東洋陶磁器美術館などが立ち並ぶところ。中央公会堂は、北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助が私財を寄付し、建てた建物で国の重要文化財にもなっている。建築設計コンペにより採用された岡田信一郎原案に基づいて、かの辰野金吾・片岡安が実施設計を行い、1918年(大正7年)に完成した赤レンガの美しい建物。

安藤氏設計の出入り口は円弧状に湾曲した天井・壁の内側に青く発光するLEDを埋め込んだクリスタル硝子のブロックを張り詰めたもので、コバルト・ブルーの空間をゆっくりとエスカレータが上がって行くと、両サイドを流れている堂島川や土佐堀川の水中から地上へ浮揚していくような感覚に捉われます。そして半アーチ状の出入り口の先には、ライトアップされた中央公会堂の美しい姿が徐々に見えてきます。そうです、この出入り口は、薄暮時或いは夜の帳が訪れた頃が、最も美しくなるように設計されているのです。

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薄暮時、ライトアップされた公会堂の屋外テラスでは、川面を吹き渡る秋風に身を委ね、食事を楽しむ多くのカップルの姿や、柵にもたれてじっと川面に映る夜景を見入る人の姿も・・・・。なにわ橋付近の街歩きを楽しむには、春か、この秋の時期の夕暮れが一番いいようですね。また街を楽しむための素材がひとつ増えました。



昔から、駅というものはそこに様々な人生模様が展開されるため、映画、歌、小説の背景として数多く登場してきた。「出会いと別れ」を描いた名画は数多くあるが、なかでも、青春時代に見た「男と女」、「ひまわり」、「恋に落ちて」はその音楽とともに「駅」を舞台にしたラストシーンが忘れられない。

戦争によって別れ別れになったが、やっと再会した夫をロシアへと見送る哀切極まりないミラノの駅。ビットリオ・デ・シーカ監督、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ主演の「ひまわり」のラストシーン。

ひまわり《デジタルリマスター版》
/ ビデオメーカー
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共に連れ合いに先立たれた男女が、互いの悲しい過去を引きずりながら恋に落ちていく様を描いた大人のラブ・ストーリー。どうしても過去を振り切ることができず、パリへ一人戻る女性を乗せた列車を、車を飛ばして追いかけ、男は駅で待ちうける。ピエール・バルーが歌う同名のボサノバが新鮮だったクロード・ルルーシュ監督、アヌーク・エーメ、ジャン=ルイ・トランティニャン主演 「男と女」のラストシーン。

男と女 特別版
/ ワーナー・ホーム・ビデオ
ISBN : B001F4C5H6
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落ちてはいけない中年の男女の恋を描いたロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープ主演の「恋におちて」は、ニューヨーク、グランド・セントラル・ステーションとロングアイランドを結ぶ通勤列車が舞台。「デイヴ・グルーシン」のテーマ曲「マウンテン・ダンス」が出色の出来ばえ。

恋におちて
/ パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
ISBN : B000GM4CCO
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そして音楽では、「竹内まりや」のバラードを豊かな表現力、歌唱力で歌える大人のシンガー「徳永英明」がカバーした「駅」。大ヒットしたシリーズの第一作「VOCALIST」に収録されている。

「♪見覚えのある レインコート/黄昏の駅で 胸が震えた/はやい足どり まぎれもなく/昔愛していた あの人なのね/懐かしさの一歩手前で/こみ上げる 苦い思い出に ・・・・・♪」(竹内まりや作詞)

VOCALIST (通常盤)
徳永英明 / / ユニバーサル・シグマ
ISBN : B000A89TAY
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「駅 - 徳永英明」

          


ブラジル人「アドニラン・バルボーザ」が作った哀愁溢れる「11時の夜汽車/Trem das Onze(トレン・ダス・オンゼ)」は「グレース・マーヤ」が歌う。今回のアルバムはボサノバ中心で、彼女の歌手の部分に力点を置いて作られているような気がする。選曲、編曲、SACDとCDのハイブリッド仕様などがそれを物語っている。

「♪僕の家はジャサナン(地名)/いま出るあの汽車を/11時の汽車を逃したら/あとは明日の朝しかない・・・・・・♪」(Masami Takaba訳)

最終列車の恋人達の別れ。JR東海のCFを思い起こさせるような「泣き節・サンバ」の名曲。

イパネマの娘
グレース・マーヤ / / Village Records(SME)(M)
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by knakano0311 | 2008-10-23 21:52 | おやじの遠足・街歩き | Trackback(3) | Comments(4)

パリ、空中プロムナード   ~バスティーユ、リヨン駅界隈を楽しむ・番外編~

先日、佐伯祐三の描くパリの街角をみていたら、パリの「街歩き」のことを思い出した。バスティーユ近くから始まり、リヨン駅北側を通って伸びる高架鉄道跡の「空中プロムナード」をおすすめの街歩きルート、「街を楽しむ・想い出の番外編」として記してみたい。
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かって何回かパリは訪れたことがあるが、2007年4月に妻と訪れたときに、今回は「パリの街歩き」を楽しもうと決めていたのだが、ホテルか日本食レストランで入手した日本語の情報誌にパリ、リヨン駅近くの「空中プロムナード」の情報が載っていた。運良くリヨン駅近くのホテルに宿泊していたため翌日の朝さっそく出かけてみた。


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この「空中プロムナード(Promenade plantée、プロムナード・プランテ=緑の散歩道)」は、もう使わなくなった鉄道高架跡を改修して遊歩道にしたものです。1859年バスティーユから延びるヴァンセンヌ線と呼ばれた高架鉄道として建設され、以後110年間に渡って利用されていたが、すでに路線は廃止されそのまま放置されていたものを、1986年にパリ市が買取り、プロムナードとして再利用することになったものです。かっての軌道部には樹木や花を植え空中緑化、公園とし、総延長約1.4kmにも及ぶ歩行者用遊歩道として利用し、高架下のアーチ部はアトリエや工房、店舗空間として1995年に復活させたものです。(注;別の「資料」には総延長4.5kmとあり、実際歩いた私としてはそちらが正しいのではないかと思います。かなりの距離でした。)
(上の写真記事はサイト「建築マップ」より引用、参照)

b0102572_2394664.jpg高架プロムナードはただ緑を植えるだけではなく、4月に訪れたときは、花壇やバラ園になっていたり、またところどころベンチのある広場になっていたり、変化をもたせています。プロムナード沿いのアパルトマンの窓辺の花や景観、教会、眼下の道路と歩く人々、カフェ、そんなパリのごくごく一般的な風景が借景となり、交差点も信号機もなく、遊歩道をのどかな雰囲気で歩くので、楽しく疲れずに散歩できます。


b0102572_22584692.jpgそして、高架下はアートと工芸の集積地となっており、家具、ドア、ランプ、アクセサリー、トルーペイント、刺繍、陶磁器などのさまざまなショップやギャラリー、工房が並んでいます。

左の写真はこういうものがあると初めて知った、きれいな刺繍が施されたミニチュアのハイヒール専門のブティック。北斎のモチーフの上にさりげなく・・・。


b0102572_2331832.jpg木のクラフト・ショップのウインドウに置かれたかわいいハリネズミのクラフト。

バスティーユ、リヨン駅どちらからも歩いて5分ほどのところにありますが、行きは空中プロムナードを散歩し、開放感とパリの雰囲気を満喫し、帰りは高架下の工房を覗きながら、お土産や買い物を楽しむというルートがおすすめです。


それにしても、140年以上前に建てられた高架鉄道跡をこんな素敵で、意外な形で再利用し、しかもそれがまったく古さを感じさせず、むしろパリの街の中にオアシスとしてしっくりと溶け込んでいる、こんな懐の深いヨーロッパ、パリの歴史建造物や建築に対するセンス、感覚は建築関係者ならずとも、ぜひ見習いたいもの・・・・。

さあ、パリをタイトルにしたJazzアルバムはいくつかあるが、ピアノトリオ「ケニー・ドリュー」の「パリ北駅着、印象」をあげておこう。
ケニー・ドリュー (Kenny Drew、1928年8月 - 1993年8月)はハード・バップ・ピアニストの一人でニューヨーク出身でありながら、ヨーロッパにすっかり魅せられてしまったアメリカ人のJazzピアニスト。メロディを重視し、優しいタッチの演奏で、ヨーロッパ及び日本で人気を集めた。今風に言えば、ヨーロピアン・スムース・ジャズ・ピアノというところか・・・・。
彼は、1961年にパリに渡り、その後1964年からデンマークのコペンハーゲンに活動の拠点を移し、以来コペンハーゲンを生涯の演奏の場にしたと言う。心地よさだけではない「サムシング」を感じさせる演奏が人気を呼んだのであろう。
「パリ北駅着、印象」は、1988年にケニー・ドリュー・トリオがコペンハーゲンで録音したアルバムです。パリへの憧れ、ヨーロッパへの愛着がにじみ出てくるような傑作アルバム。

パリ北駅着、印象
ケニー・ドリュー・トリオ / エムアンドアイカンパニー
ISBN : B0000A8UY8
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埋め込みができませんのでクリックでどうぞ。アルバムから表題曲を含む3曲を ・・・。 「Kenny Drew trio ― Impressions/Evening in the Park/Autumn Leaves」


そして、パリの大衆音楽「ミュゼット」の薫りを色濃く感じさせるアルバムは、なぜかタイトルはアカプルコの「桑山哲也/アカプルコの月」。ボサノバ、ミュゼット、ジプシー・スイング、タンゴなどがいっぱい詰まった宝石箱のようなアルバムで、ノスタルジックなアコーディオンの音色は、とても心地よく、パリの街角を歩いているような異国情緒に浸れます。これほどまでに異国情緒を表現できる彼のバックグラウンドとは一体なんだろう。藤田某という女優と結婚したらしいが・・・・・。

アカプルコの月
桑山哲也 広瀬健二 高橋辰巳 黒木千波留 山田智之 村上“ポンタ”秀一 北村晋也 / BMG JAPAN
ISBN : B00005ONVC
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「アカプルコの月 - 桑山哲也」

          


二人のエトランゼが描くパリの心象風景・・・・。
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by knakano0311 | 2008-10-15 23:47 | おやじの遠足・街歩き | Trackback | Comments(0)