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大屋地爵士のJAZZYな生活

時を超えて  ~ アルフォンス・ミュシャに憧れて ~

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(写真;《ポスター:サラ・ベルナール》1896年 カラーリトグラフ 堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館HPより)

「おやじの遠足」。今日は車で40分ほど堺まで足を伸ばしました。お目当ては、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館での企画展示、「ミュシャと世紀末芸術」。「アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)」は、19世紀末から20世紀初頭にかけて花開いたアール・ヌーヴォーの代表的画家。私は学生時代に、ミュシャには、彼とほぼ同年代で、画家、詩人、小説家でイギリス・ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する「オーブリー・ビアズリー」と並んで、ずいぶんと憧れていた画家の一人でした。最近、ミュシャの美術館がここ堺市にあると知ってびっくりし、ぜひ観たいと思っていた美術館です。ここに集められているミュシャの作品は、関西ではよく知られている「カメラのドイ」の創業者である土居君雄氏が、ミュシャの知名度がさほど無かった頃から個人的に気に入り、渡欧する度に買い集めた「ドイ・コレクション」がベースだそうだ。土居氏の他界後、遺族は、コレクションが散逸してしまうのを憂慮して、堺市に寄贈されたようである。その後、ミュシャの活躍した「時代から100年後、この美術館が開館した。

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(写真;《『ジスモンダ』のポスター》1895年 カラーリトグラフ アルフォンス・ミュシャ館HPより)

「アルフォンス・ミュシャ」。ミュシャは、チェコで生まれ、25歳のときミュンヘン美術アカデミー入学、卒業し、28歳のときには、パリにてアカデミー・ジュリアンで美術を学んだ。彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した、ポスター史に残る名作「ジスモンダ」のポスターである。威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした。この成功の後も、ミュシャは生涯を通してたくさんの女性たちを描いた。その表現からは、女性への賛美や思慕、時には畏怖さえも読み取ることができる。彼にとって女性は、人間の内面を見つめるための重要なテーマの一つになっていったという。



やがて、故国であるチェコに帰国して活動を続けたが、1939年3月、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体され、プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕された。「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」という理由からだった。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、またそれは79歳の老体には耐えられないものであった。その後ミュシャは釈放されたが、4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じた。

この美術館には、ポスターや装飾パネルの代表作など約100点の作品が所蔵されており、ミュシャ・コレクションの美術館としても、世界的に有名だそうだ。

館内に入るなり、すっかり魅了されてしまった。しなやかな曲線と美しい色彩、装飾性の高い緻密なモチーフ、瑞々しい女性の肌の光沢、豊かな表情、ジャポニズムの影響を受けたとも言われる大胆な構図。花や宝石などをテーマにした美しい連作・・・。二人で言葉もなく見入ることしばし。妻もすっかりお気に入りの「いもたこなんきん」美術館になってしまったことは間違いなし。心に余韻を残しつつ、再来館を約束してアルフォンス・ミュシャ館をあとにした。

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(写真;与謝野晶子文芸館HPより)

そして、同じ建物の1階下では、与謝野晶子文芸館が常設展「与謝野晶子 生涯と作品」(第3期)を開催中。
「与謝野晶子(1878-1942)」。彼女は、ここ堺出身で、近代文学史を代表する歌人として有名。『みだれ髪』をはじめ生前には23歌集を出版している。また、歌だけでなく「君死にたまふこと勿れ」などの詩や『源氏物語』の現代語訳を手掛け、女性の権利に焦点をあてた評論や文化学院の創設に関わるといった教育活動にも力を注いでいました。また同時に、与謝野鉄幹(寛)の妻であり、11人の子どもを生み育てた母でもあり、たくましい日本の母といった側面もあった。そんな彼女の生涯を自筆の歌幅、色紙、また愛用の品々などとも一緒に展示している。

明治33年(1900年)に行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と親しくなり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、処女歌集『みだれ髪』を刊行し浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」というあの有名な歌にちなみ、「やは肌の晶子」と呼ばれた。

館内では晶子を「愛の歌人」と位置づけ、ちょうどバレンタイン・デイにちなんだ色々な企画を行っていたのが新鮮。私は、愛の歌ではなく、まだ冬が立ち去らない、ちょうど今日のような早春の日を詠った歌に魅かれた。

 ゆるやかに 淡雪の矢を放ちくる 春の御空と 思ひけるかな  (晶子 立春)

1900年ごろ、いわゆる「世紀末の時代」とは何だったんだろうとあらためて思う。ヨーロッパでは、産業革命や科学技術の目覚しい進歩の成果としての「パリ万博」が開催された年。そんな急激な社会の変化に対する不安や疑問も内包していた爛熟した社会情勢を反映したかのように、パリ派、印象派、アール・ヌーヴォーなどが一斉に花開いた時代。またジャポニズムなど異文化への関心も高まった時代。日本では雑誌「明星」などが発刊され、晶子が『みだれ髪』を刊行し、女性が主張を始めた時代。前回の「富岡鉄斎(1837-1924)」もこの時代の人でしたね。明治になって欧米の文化が流れこみ、その自由闊達の精神が、一定の醸成の期間をおいて日本の文化の中に湧き出してきて、それがやがて「大正デモクラシー」、「大正ロマン」へとつながっていった時代と見ることもできよう。

そんないくつかの思いを抱きながら、帰りにはすぐ近くの「仁徳天皇陵」をみて家路に。今日の「おやじの遠足」は、ミュシャに憧れた学生時代、或いは世紀末パリへのタイム・トラベルでもあった。 

世紀末から40年ほど経ったパリに彗星のごとく現れた一人のミュージシャンがパリを魅了した。「ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt 1910年~1953年)」。ジプシーの伝統音楽とスウィングジャズを融合させた「ジプシー・スウィング(マヌーシュ・スウィング)」の創始者。ジプシーとして、幼少の頃からヨーロッパ各地を漂流して過ごし、そこでギターやヴァイオリンの演奏を身につけて育った。18歳のときにキャラバンの火事を消そうとして、左指2本の動きを失う大火傷を負ったが、そのハンディを奇跡的に乗り越え、独自の奏法を確立。後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を、その短い生涯(享年43歳)の中で幾つも発表した。
この簡単な来歴をみただけでも、彼の数奇な人生と短い生涯に凝縮された音楽性が想像できる。1949年という第二次大戦後さほど日が経っていないローマでの録音、ジャンゴが亡くなる4年前のステファン・グラッペリのヴァイオリンとの貴重なセッション。

ジャンゴロジー~スペシャル・エディション
ジャンゴ・ラインハルト / BMG JAPAN
ISBN : B00008CH8W
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「Django Reinhardt - Minor Swing」

          
by knakano0311 | 2009-03-01 22:04 | おやじの遠足・街歩き | Comments(0)
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