もう遥かな昔になるが、二十代の頃、初めて深く心が傷ついたとき、一晩中、同じ歌を何回も聴いていた記憶がある。なんの歌だったかは、もう記憶の底に沈んでしまって、もはや思い出せないのですが・・。貧乏だったが、まだ青くて若くて多感で、夢や野心があって、傷つけることも、傷つくことも恐れていなかったが、あの時の、ただただ切なかった自分を、想いだして懐かしむために、今でもときどき秋の夜更けなどに聴く歌がある。その歌は、「チェット・ベイカー/Chet Baker」が歌う「I'm a fool to want you」。
【 I'm a fool to want you 】 作詞;Jack Wolf & Frank Sinatra 作曲;Joel Herron
「♪ I'm a fool to want you
I'm a fool to want you
To want a love that can't be true
A love that's there for others too
I'm a fool to hold you
Such a fool to hold you
To seek a kiss not mine alone
To share a kiss the devil has known
Time and time again I said I'd leave you
Time and time again I went away
Then would come the time when I would need you
And once again these words I'd have to say
I'm a fool to want you
Pity me, I need you
I know it's wrong
It must be wrong
But right or wrong
I can't get along
Without you ♪」
あの傷ついた二十代のとき、この歌を知っていれば、きっと一晩中、聴きつづけていたに違いない。トランペッターにして恋唄唄い、「チェット・ベイカー」の「Love song」というアルバムに収録されている「I'm a fool to want you」。ホテルの窓から転落して死ぬ2年前の1986年、アムステルダムでの録音である。生涯麻薬と酒から脱却することができなかった破滅的白人JAZZマンの代表格みたいな男だが、その声のもつ毒に痺れ、その毒が今でも後遺症のように私には残っているようだ。だから、いまだにこの歌は私を泣かす。辺見庸は、月刊「プレイボーイ」誌2008年8月号でチェットの歌う、「I'm a fool to want you」についてこんな風に語っている。
この「I'm a fool to want you」を聴いたら「鳥肌もの」という、もう一枚のアルバムがある。「ビリー・ホリディ」。アルバムは「レディ・イン・サテン」。このアルバムも、亡くなる前年の1958年の録音。体はぼろぼろで、声は衰え痛々しいほどだが、気力をふり絞って歌う。これはもう執念としかいいようがない。死を目前した超新星のような一瞬の輝きか残照か。しかし、「恋は愚かというけれど」という邦題では、この歌の持つ深いせつなさや哀しみは表わせない。