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大屋地爵士のJAZZYな生活

一冊の本 ~日米開戦の日に~

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過日、母のケアで帰省した折、父の本棚に残されていた一冊の本が目についた。題名は「われらかく戦えり」。昭和57年(1982年)10月15日発刊、非売品。500ページを超える厚い本である。なにげなくとって、その目次を辿っていくと、父の名前を見つけたのである。この本は、昭和11年(1936年)9月1日、海軍通信学校に入学し、12年7月29日に第44期普通科電信術練習生教程を卒業した、所謂、海軍少年電信兵、少年航空兵たち50数名の日米戦争開戦から終戦にいたる彼らの従軍手記をまとめた本である。父が海軍通信兵であったことは知っていたが、あまり戦争に関する詳しい話を聞いたことがなかった。この本はそんな父と同期生達の手記であった。競争率4%という狭き門を突破して入学した44期の少年達は598名、その平均年齢は16.8歳だったと記されている。そのうち三百数十名は戦死、もしくは戦争に起因する戦後死没であったことも記されていた。

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(写真;重巡洋艦「愛宕」)

父の記述には、ハワイ奇襲に向かう第1艦隊とは別に、南方方面へ向かう第2艦隊司令部、旗艦愛宕に乗船し、英国戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」と戦ったマレー沖海戦の模様が記されており、その後、スラバヤ沖海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、ソロモン海戦等、南太平洋における殆どの海戦に参加した後、昭和18年8月に船を降り、横須賀通信学校の電探(レーダー)教員となって終戦を迎えた経歴も記されていた。父が去った後、第2艦隊旗艦「愛宕」は、昭和19年10月22日、ブルネイを出航、レイテ島へ向かう途中、米潜水艦「ダーター」に捕捉され、放たれた6本の魚雷のうち4本が右舷に命中、転覆、沈没した。父の海軍通信学校入学は18歳、23歳で日米開戦、27歳で終戦を迎えたことになる。この本を読むと国家や軍の指導者達の主義主張、イデオロギーや大義とは無関係に、ただただ「祖国のために」と純粋に戦っていた少年達の姿が浮き彫りになってくる。敗戦、占領、軍事的独立を放棄した代償として他国の基地があるがゆえの理不尽、不条理は64年経てもなお続き、新政権になっても解消できそうもない。

もう一冊は、手記を読んだ父の友人が送ってきた私家本で、レーダー技術の発達史を訳した本である。あまり戦争のことは詳しくは語らなかったので、父の戦争観はよくわからないが、日米戦争のハワイ、マレー沖など緒戦における日本の勝利は明らかに巨艦から航空機に戦いの主役が移ったためであり、変化した戦いの勝敗を左右する重要な要因であるレーダー技術開発の彼我の差が、最終的には決定的な結果をもたらしたと語っていたことを思い出した。

終戦の翌年に生まれ、たしかに貧しかったが、文字通り「命を賭ける」という戦争経験もなく、大学受験、ノンポリ、就職、高度成長期、バブル期とその崩壊を経験し、定年を迎えた私が、この本が発刊された時の父親の歳、64歳になろうとしている。父の何を受け継いで何をなしたのか、或いはなすべきなのか。12月8日、日米開戦の日から68年目のこの日に父親の手記を読んでみて、そんなことを考えた。

義父に献じたものと同じJAZZの名曲を、我が父にも献じておこう。ファンキーと呼ばれたJAZZの傑作「ホレス・シルヴァー/Song For My Father」。

ソング・フォー・マイ・ファーザー+4

ホレス・シルヴァー / EMIミュージック・ジャパン



「Horace Silver - Song for My Father」

          
by knakano0311 | 2009-12-09 09:27 | 想うことなど・・・ | Comments(0)
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