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大屋地爵士のJAZZYな生活

ふるさとエレジー(5) ~ 家あれども帰り得ず/川島芳子 ~

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「川島芳子(かわしま よしこ)」という名前をご存知だろうか?1907年5月24日北京生まれ、本名は「愛新覺羅 顯シ(あいしんかくら けんし)」、清朝の最後の皇族「粛(しゅく)親王」の第十四王女である。清朝復興を夢見て、日本軍の特務機関員らと、上海事変や満州国建国に関与した日本軍スパイとされ、その数奇な運命から、「男装の麗人」、「東洋のマタハリ」などと呼ばれた。戦後、中国の国民党政府軍に逮捕され、1948年3月25日、北京で銃殺刑が執行された。享年41歳であった。処刑直後からも、替え玉説、生存説が絶えることなく今も存在している。今年、台湾で処刑後の死亡を確認する公文書が見つかったことが発表され、死亡の裏づけがなされたが、戦後65年経た今なお彼女が話題になっていることが興味深い。

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実は「川島芳子」は青春の一時期を松本で過し、教育を受けていたのである。そして中国での銃殺後、その遺骨は松本市街を見下ろす城山の中腹、「正鱗寺(しょうりんじ)」にある義父「川島浪速」の墓に一緒に葬られている。この話は、私たち世代の松本出身者の多くが、多分知っている話であり、私も高校生の頃、この話をよく先輩から聞くとともに、夜、正鱗寺の墓地への「肝試し」をさせられたものである。久し振りの城山へのドライブの途中、寄ってみたその墓は、「国士」と刻まれて、炎天下の木立の中にひっそりと建っていた。


「川島芳子」は、辛亥革命後の5歳の時に、父「粛親王」と交わりがあり、中国語の堪能な満州浪人「川島浪速」の養女となり、芳子という日本名が付けられた。東京の豊島師範付属小学校を卒業後、川島の東京から松本への転居にともない、長野県松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に転校した。松本高等女学校へは、毎日浅間温泉にあった自宅から馬に乗って通学したという。1922年(大正11)に実父「粛親王」が死去し、葬儀のために長期休学したが、日ごろの奇矯な行動の故か、復学が認められず、松本高女を中退している。そして、17歳で自殺未遂事件を起こし、断髪、男装となる。ただ、自殺や男装の動機については諸説あって真相は分からないらしい。

その後、日本軍と深く関わり、1931年(昭和6)9月18日の満州事変勃発から2ヵ月後に、日本軍は後の満州国皇帝にまつりあげた「宣統帝(せんとうてい)・溥儀(ふぎ)」を天津から旅順に脱出させたが、芳子は関東軍の依頼を受け、残された溥儀の皇后婉容を天津から満州に連れ帰るなどをした。

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1933年(昭和8)、「松村梢風」が芳子をモデルにした小説「男装の麗人」を発表すると、一躍時代の寵児となった。芳子の端正な顔立ちや、清朝皇室出身という血筋といった属性は高い関心を呼び、芳子の真似をして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を巻き起こしたという。ある時は背広姿、時には羽織袴、戦時下には特注の軍服を着て、大陸と日本を往復する勇姿が「東洋のジャンヌ・ダルク」ともてはやされ、舞台や映画にもなった。また、芳子が歌う「十五夜の娘」、「蒙古の唄」などのレコードも発売されている。(参照 「十五夜の娘」(1933)/川島芳子が蒙古語と日本語で歌った珍しいレコード

ところが、戦後、日本の軍服を着て司令の肩書きをっもっていた彼女は、一転「漢奸(かんかん=売国奴)」として国民政府に逮捕され、1947年(昭和22)、中国高等法院でスパイ活動をしたとして、戦犯公判がスピード結審、死刑判決を受けた。その後2度の再審請求は却下され、1948年(昭和23)3月25日早朝、監獄の片隅で死刑は執行された。

「 家あれども帰り得ず
  涙あれども語り得ず

  法あれども正しきを得ず
  冤あれども誰にか訴えん」

なんと孤独で哀しい詩だろうか・・・。この句は銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた彼女の辞世の句だという。「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という上の二句は、芳子が生前好んで揮毫していた句であり、彼女の数奇な運命に翻弄された孤独な心情を表している。日中双方での根強い人気を反映してか、銃殺刑執行直後から替え玉説が報じられ、現在でも生存説が流布されている。(参照 Wikipediaなど)

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1998年、「川島芳子」の没後50周年に、「川島芳子」の書や遺品などを展示した資料室「川島芳子記念室」が、芳子が少女時代を過ごした松本市の「日本司法博物館」内に開設され、芳子の女学生時代の友人や関係者が芳子のゆかりの品などを寄贈した。その後、資料は松本市が引き継ぎ、「たてもの野外博物館 松本市歴史の里」へとリニューアルされた博物館に収蔵・展示されている。

高校時代に聞いた話に触発され、私が読んだ「川島芳子」の伝記は2冊。「上坂冬子」渾身の著作「男装の麗人・川島芳子伝」、最初に芳子を取り上げた「村松梢風」の孫、「村松友視」が奇しくも同名のタイトルで発刊した「男装の麗人」。

男装の麗人・川島芳子伝 (文春文庫)

上坂 冬子 / 文藝春秋



男装の麗人

村松 友視 / 恒文社21




あの墓に眠っていることを、彼女は本当は喜んでいるのだろうか? もうすぐお盆が来る。「家あれども帰り得ず ・・・ 」と詠んだ彼女の悲痛なる魂を小舟に乗せて、故郷中国へ送ってあげようではないか。魂の小舟を送るエレジーは、「On A Slow Boat to China/中国へ向かう遅い船の上で」 ・・・ 。

聴いてみますか? 「On A Slow Boat To China」。 有名なスタンダードですが、すこしレトロなアレンジで「真梨邑(まりむら)ケイ」が歌う。
「 ♪  中国へ向かう遅い船の上で/あなたを独り占めしたい/私の腕の中にずっと抱え込んで/あなたの恋人は海の彼方で泣かせておくのさ ・・・・ ♪ 」

          
by knakano0311 | 2010-08-09 09:47 | ふるさとは遠くにありて・・・ | Comments(0)
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