(写真;エアロベース社のマイクロ・ウイング・シリーズ、リンドバーグの愛機、「スピリット・オブ・セント・ルイス」号の完成模型;1927年、リンドバーグが初の大西洋単独無着陸横断に成功した機体。1/160スケール;翼幅88mm;パーツ点数:15;ニッケル合金(洋白)製)
模型飛行機を作っていて思い出したことがある。大分昔であるが、米国出張の途中で「セント・ルイス/St. Louis」を訪れたことがある。この短い旅で、私はある名曲によって、大いなる誤解というか、誤った先入観を私が持っていたことに気が付いたのだ。その曲とは、ジャズのなかで、だれもが知っているだろう曲の一つ、「セント・ルイス・ブルース/Saint Louis Blues」である。「いや~ん、ばか~ん。そこは ・・・。」なんて「ドリフターズ」だったろうか、少し下品なギャグでも一世を風靡した曲でもある。
セント・ルイスは、イリノイ州、アイオワ州、カンサス州に隣接する、アメリカ合衆国ミズーリ州東部、ミシシッピ川とミズーリ川の合流点に位置する人口、35万人くらいの商工業都市である。セキュリティ関連の国際エキヒビジョンが開催されたため訪れたのである。
その先入観の一つは、余りにも「セント・ルイス・ブルース」が有名なため、セント・ルイスは、ニューオリンズ、ニューヨーク、シカゴなどと同じような「JAZZ City、BLUES Cityである」と勝手に思い込んでいたことであった。しかし実際行ってみると、その期待は見事に裏切られ、歴史的なジャズの街という雰囲気はまったくなかったのである。登ることができるという市の観光シンボルである巨大な「ゲートウェイ・アーチ」が迎えてくれる近代的な都会であった。しかし、収穫として分かったことは、あの「セント・ルイス・ブルース」という曲は、簡単に言ってみれば、いわゆるご当地ソングで、「ウイリアム・クリストファー・ハンディ/W.C.Handy」によって作られた、JAZZ史上最大のヒット曲にして、スタンダードであるということだった。
そして、二つ目の先入観は、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされる「チャールズ・リンドバーグ/Charles Lindbergh」、「スピリット・オブ・セント・ルイス/Spirit of St. Louis」号による、ノンストップ大西洋横断単独飛行に成功した「リンドバーグ」の出身地であると、これも勝手に思い込んでいたことであった。しかし、「リンドバーグ」は、ミシガン州デトロイト市で生まれ、ミネソタ州リトルフォールズで成長し、1920年代には「ライン・セント・ルイス」という民間航空会社のパイロットとして働いたということで、取り立ててセント・ルイスとの深いつながりはないようである。しかし、一番の誤解を生んだ元は、セント・ルイスのいたるところで見かけるお土産品、例えばT-シャツやキャップ、キーホルダーなどに描かれているあの飛行機であろう。
その名も「スピリット・オブ・セント・ルイス号」は、1927年5月、「ライアン・エアラインズ社/Ryan Airlines」製の単発機「ライアンNYP-1」の愛称である。「リンドバーグ」が、当時パイロットとして勤めていた「ライン・セント・ルイス社」が、「リンドバーグ」の大西洋横断飛行の試みを支援し、それに対し彼が敬意を表して機に「スピリット・オブ・セント・ルイス号」の名をつけたという。現在、「スピリット・オブ・セント・ルイス号」は、アメリカのワシントンDC、「スミソニアン航空博物館(国立航空宇宙博物館)」に保管・展示されている。(写真参照)
しかし、「セント・ルイス・ブルース」と「セント・ルイス」をめぐる誤解は解けたが、この曲が歴史的な名曲であることに、少しも変わりないのである。
「セント・ルイス・ブルース」といえば、誰しもが「サッチモ/Satchmo」の愛称で呼ばれた、「ルイ・アームストロング/Louis Armstrong」を思い出すのではないでしょうか。しかし、私もそうでしたが、作曲者やこの曲が誕生してから100年の歴史にまつわる色々なエピソードについては意外と知られていないのではないでしょうか。この曲は、「ブルースの父」と称される「W.C.ハンディ(1873-1958年)」が、1914年に発表した彼の最大のヒット曲であり、おそらく最大の代表作である。
そういえば、10年程前でしょうか、このブログを書き始めるずっと前ですが、NHK‐BSの「世紀を刻んだ歌」という番組で「セント・ルイス・ブルース」が取り上げられていたことがありましたね。そこで「ハンディ」の経歴やこの歌が生まれた経緯、その後のエピソードなどについて放映されていました。すっかり忘れていたその番組のことを思い出したので、ちょっと調べたら、この番組について詳細に書かれたサイト「
大好きセントルイス 」がありました。それを参考にさせていただき、すこしこの歌の歴史を紐解いてみたいと思います。
「ハンディ」は、アメリカ南部アラバマ州フローレンスで生まれ、牧師だった父は彼に教会の手伝いとして賛美歌を演奏させるために楽譜の読み書きを教えたという。 しかし毎日のようにオルガンを演奏した「ハンディ」は、音楽へ進みたいという想いが強くなったが、父の反対を受け、家を出て、友人とブラスバンドを組み、仕事を探しながら各地を放浪生活をし、耳にした黒人たちの歌を楽譜に書き写したという。やがて無一文同様でセント・ルイスに流れて着いて、黒人たちに施しを受けながら生活をした。その後、セント・ルイスを離れ、小さな楽団の指揮者になった「ハンディ」は、セント・ルイス時代を思い出しながら、「セント・ルイス・ブルース」を作曲したという。そのころの、彼の演奏がYOUTUBEにアップされていました。
「ST.LOUIS BLUES by W.C.Handy and Orchestra」
VIDEO
この曲を愛するジャズ・ファンやミュージシャンは多く、あげれば切りがないくらいの夥しい数(録音回数は1500を超えているらしい)のカバーが存在する。その中で、1925年に録音された「ベッシー・スミス/Bessie Smith」と「ルイ・アームストロング」の共演が、アメリカ音楽史に残る名演とされ、以後、「セント・ルイス・ブルース」といえば「ルイ・アームストロング」という公式が出来上がったようである。そして、この演奏にはエピソ-ドが伝えられていて、吹き込みテ-プを「ハンディ」が聴いて、涙を流しながらその素晴らしさをたたえたという。「W.C.ハンディ」は、1873年生まれというから、この時は老いにさしかかった52歳だったはずである。この歴史上の名盤からの演奏を ・・・・。
「St. Louis Blues - Bessie Smith,Louis Armstrong on Cornet (1925)」
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そして、サッチモが歌った再び歴史に残る「セント・ルイス・ブルース」の名盤といえば、それからだいぶ経ってからの話だが、「ハンディ」をトリビュートした「プレイズ・W.C.ハンディ」。ボーカルは、「ルイ・アームストロング」と「ヴェルマ・ミドルトン/Velma Middleton」。1954年のことである。
プレイズ・W.C.ハンディ
ルイ・アームストロング / ソニーレコード
「Louis Armstrong with Velma Middleton & His All Stars - Saint Louis Blues」
VIDEO
NHK‐BSの「世紀を刻んだ歌」という番組に話を戻すが、「セント・ルイス・ブルース」を世界に広めたのは戦争だったという。 第1次世界大戦で激戦地に送られた黒人だけで編成されたアメリカ軍部隊「ハーレム・ヘル・ファイターズ」が好んで演奏したのが、「セント・ルイス・ブルース」だったというし、母がユダヤ人、父がドイツ人のジャズ・ギタリストで、ジャズを弾圧していたナチス政権下にあって、ナチスに許されてジャズを演奏できるという不可解な状況にいた唯一のジャズマン、「ココ・シューマン/Coco Schumann」が、ユダヤ人強制収容所で演奏した人気のナンバーが、「セント・ルイス・ブルース」だったという。
第2次世界大戦前、「東欧のパリ」と謳われたポーランドの首都「ワルシャワ」では、西ヨーロッパの流行がいち早く伝わり、特にジャズは熱狂的に受け入れられていた。そのワルシャワで活躍していたのが、 アメリカのジャズ大会で1位の「ルイ・アームストロング」に続き、2位をとったポーランド人のトランペッターで、「白いアームストロング」と呼ばれていた「エディ・ロズナー/Eddie Rosner」であった。彼の演奏する「セント・ルイス・ブルース」は人気の曲だったという。ナチスのポーランド侵攻により祖国を離れ、ジャズが熱狂的に受け入れられていたソヴィエトへ亡命、スターリンにも認められ特別待遇を受けるなどの活躍をみせたが、第二次大戦後、ソヴィエト政府は一転ジャズを拒否、弾圧を受ける身となったロズナーは、祖国ポーランドへ脱出をはかるも、国境付近で逮捕、シベリアに送られ9年間強制労働に従事させられた。
その後の東西冷戦の間は、東側諸国ではジャズのレコードは徹底的に禁止されたが、ジャズ・ファンは使用済みのレントゲン写真を使って「肋骨レコード」と呼ばれたレコードをアングラで作り出したのである。このアングラ盤でもロズナーの演奏する「セント・ルイス・ブルース」は人気があったという。持っているのが見つかれば即逮捕なのだが、このレコードはなんと200万枚も作られた。 ロズナーは、スターリンの死後、1955年にシベリアから解放、18年後の71歳の時に、アメリカへ亡命するが、「セント・ルイス・ブルース」はもちろん、ジャズを一度も演奏することなく、4年後の1976年に西ベルリンで生涯を閉じたという。ヨペックに繋がるルーツをまた一人知った。
写真が、使用済みのレントゲンフィルムを使用して製作された肋骨レコード。盤面にはろっ骨や頭蓋骨がそのまま写っていたという。日本でも昔流行ったソノシートのようなものでしょうか。ジャズやロックンロールが禁止されていた大戦後の旧ソ連、東欧で、ジャズやロックに惹かれたソビエト赤軍兵士らが西側から持ち帰った音源で、1950年代にひそかに作られた。
そして、「セント・ルイス・ブルース」にまつわる最後の秘話は、日本の硫黄島の洞窟で発見された日本兵が持っていた、「あきれたぼういず」で人気のあった「川田 晴久(川田 義雄)」盤の日本語で歌われた「セント・ルイス・ブルース」のレコードだった。それは、太平洋戦争末期、アメリカの総攻撃を受けた硫黄島の壕内の遺体の傍らにあったという。多分「浪曲セントルイスブルース」であったろうと思われるが、このレコードは、70歳の時に事故で失明した「ハンディ」の元に届けられ、生涯の宝物となるレコードが届けられる。 「ハンディ」は、このレコードを聴くのが大好きで、聴きながら子供たちにこう語りかけたという。「これは、敵も味方もなく同じ歌が聴かれたことを物語るかけがえのない一枚なのだ。」
このように「セント・ルイス・ブルース」は、数々の数奇をたどり、感動的なエピソードを持ち、それゆえに100年近い歴史を持ちながら、今なお不死鳥の如く愛されている曲なのである。長い記事となったが、忘れかけていたかってのTV番組を思い起こさせ、名曲なるが故のその歴史に思いを馳せ、そして新しい知見を得た「大好きセントルイス」に改めて感謝しつつ、今年1月に亡くなった「エタ・ジェイムズ/Etta James」の「セント・ルイス・ブルース」を聴く。
「Etta James - St. Louis Blues」
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