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大屋地爵士のJAZZYな生活

ストレンジャーズ創世記 ~ 誕生篇 ~


                        青春賦(7)


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 バンマスの柴田から連絡が来た。軽音楽部の部長に掛け合った結果、バンドごとの入部を認めるし、独自活動も認める。更に、部室に楽器などを置いても良いと言ってくれたとのこと。正に満額回答。  
   
 どうやったのか知らないけど柴田は大したもの。最低1年くらい、どこかのバンドボーイをやったら自由を認めるとか言われても仕方ないと半分は覚悟していたのに。  
   
 どうやら、先方にも都合が良い点があったらしい。その第一は、この大学、総合大学だからありとあらゆる学部があるのだが、柴田や阿部や岡崎など農学部の学生が今まで一人も軽音に在籍していなかったこと。つまり、全学部の学生が参加するサークルにすることが求められていて、それによって学校からの補助金の額が変わるので、農学部の参加はサークルにとって大きなプラスだったことだ。  
  
 二つ目は、現在軽音には5つのバンドがあり、ジャズバンド2、ハワイアンバンド2、ロックバンド1だ。軽音としてはもう1つロックバンドがあればバランスが良いし、切磋琢磨出来るという点だった。  
   
 柴田も高校の先輩のX部長に、会計でも渉外でも何でも、Xの下働きを引き受けるという条件でこの満額回答を引出したようだ。流石バンマスだけのことはある。  
 
 それから1週間後、僕はドラムセットを買い、部室に運び込んだ。時同じくして柴田達がギターアンプ2台を運び込んだ。元々先輩達の楽器で空きが少なかったスペースも、これで全部埋まった感がある。  
 
 さぁ、いよいよ、大学の正規のバンドとして活動開始だ。オッとその前にバンド名を決めて軽音部長にメンバー表を提出しなくてはいけない。幾つかの案が出たが、最後は「ザ・ストレンジャーズ」で決まった。  
 
 僕も中野も阿部も遠くから仙台に来ているので、仙台では「異邦人」「よそ者」という意味と、「ストレンジ」、即ち、「風変わり」で「奇妙な奴ら」がぴったりと言うことで決まった。僕はバスドラムの表面に、黒のビニール・テープで大きく「The Strangers」と書いた。この文字だけは最後まで評判良かった。フランク・シナトラの「夜のストレンジャー(Strangers in the night)」(ストレンジャーズ いいんじゃない? 笑)が世界的大ヒットする(66年)1年前のことだった。
    
    
    
                      青春賦(8)  
   

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 我がストレンジャーズ、最初はインストゥルメンタル・オンリーで一生懸命練習した。岡崎の家で練習した「朝日のあたる家」を皮切りに、「夜霧のしのび合い」「さすらいのギター」他、ベンチャーズなどだった。阿部のサックスをフィーチャーした「太陽のかけら」(注;太陽はひとりぼっち)も何度となく練習したものだ。  
  
 だが時代は大きく動いて、アマチュア・バンドの世界もベンチャーズ一色だった日本で、グループ・サウンズが一気に花開くと、流れはインストゥルメンタルからボーカル入りのロックに突入して行ったのだ。  
   
 グループ・サウンズの奔りは、加山雄三とランチャーズ。加山の「君といつまでも」が大ヒットしたのは1965年。僕らの関心はそのレコードのB面「夜空の星」。ハイスピードのロックで、ランチャーズをバックに加山が歌う。間奏では特別参加の寺内たけしのギター・アドリブが僕らを引き付けた。66年には「蒼い星くず」が大ヒットする。これも「夜空の星」の流れを汲むロック・ミュージックだ。  
    
 同じく65年に「フリフリ」でデビューしたザ・スパイダースは、翌66年に「ノー。ノー・ボーイ」「夕陽が泣いている」で一躍スターダムに。また、66年には、ブルーコメッツが「青い瞳」というロックの曲で鮮烈にデビューし、67年の「ブルーシャトー」でレコード大賞に輝やき、初めてロック・グループが歌謡曲を押しのけたのだった。66年はビートルズが初来日した年でもあった。そして、67年、ザ・タイガースが「僕のマリー」でデビューし「モナリザの微笑」で大ブレーク。ジュリーの容貌とメンバーの若さ・カッコ良さがティーン・エイジャーの心に火を着け、グループ・サウンズは若者文化となって行った。その後は、ショーケンのテンプターズ、ゴールデンカップス、モップス、カーナビーツ、等など、とても書き切れない。僕等もその辺の変化はしっかり嗅ぎ分け、インストゥルメンタル専門のバンドから、全員がボーカルをやりながら演奏するバンドに変化して行ったのだった。但し、日本のグループ・サウンズの真似をすることには正直抵抗があり、ロックはあちらもの、ビートルズやローリング・ストーンズ、アニマルズの曲、またアメリカのR&Bのカバー曲が多くなって行った。  
  
 アニマルズの「ブーン・ブーン・ブーン」、ストーンズの「ペイント・イット・ブラック」、レイ・チャールスの「ホワット・アイ・セイ」など、重さのあるロックを歌うのはいつもベースの中野だ。仲間内で言うのも何だがこれがなかなか良い。  
    
 また、当時、イギリスやアメリカでなく、スウェーデンのグループのヒット曲「ストップ・ザ・ミュージック」をバンマスの柴田が歌った。コピーには違いないけど、本物とはまた違う良さがあると僕等は思っていた。この時はまだ新米バンドで活躍の場が少なかったが、後に、この時チャレンジしたこれらの曲が活きて来る。  

 但し、なかなか僕にだけは歌わせてはくれない。歌いながらドラムを叩いて、リズムが崩れたらどうしようもないという心配からだったと思う。ホントは僕だって歌いたいんだよ~。
   
   
   

                         青春賦(9)     
   

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 軽音入部は昭和40年10月(1965年10月)だった。発表会の予定もないまま1ヶ月を過ぎた頃、バンマスの柴田が最初の出番の話を持って来た。農学部の文化祭のステージで演奏してくれという依頼であった。  
 
 農学部は北仙台に広大な敷地を有している。因みに、我が大学は仙台の中心部を取り囲むように各地に学部が点在していて、今思えば不思議な街だ。町中に同じ大学が散らばっているのだから。北仙台の農学部の他、仙台市の北西の方向に医学部と大学病院、南(片平地区)には、理学部・工学部・法学部・文学部・経済学部、そして、西には、1・2年生の教養部(川内地区)といった具合だ。後に、理学部・工学部は青葉山の上に移転する。さて、僕等の初舞台の会場は、比較的小規模な講堂のような所だった。それでも150人くらいの観客で超満員だった。僕らの出番は、マジック部員による学生マジック・ショーの次だ。出番が近付くと何だか落ち着かなくなる。  
   
 人前での初めての演奏披露。いやー、緊張したね。何でわざわざ、口の中が乾くような、余計なアドレナリンが沢山分泌されるようなことをしなくちゃいけないのか。そんな義務、全くないのにと思いながらの演奏だったから楽しむどころじゃなかった。尤もそれを聞いてる方は、こっちこそ聞かなきゃならねー義理ぁ、どこにもねーぞって思ったろう。  
   
 よく覚えていないが、兎も角初めてのステージが終わった。ただ、もっともっと練習して、幾らあがっても失敗しようがないくらいにならなくちゃぁいけないと、メンバー全員が思った。  
    
 それには、部室を複数のバンドで曜日を決めて週1回練習する程度ではダメだ。その都度楽器を運んでも良いから、部室の近くで毎日練習出来る場所を確保しなくては。  
    
 丁度その頃、部室のある建物の近くに、新らたに学食が出来た。団塊世代の学生が増えたためか、これまでの学食だけでは足りなくてもう一つ、この教養部のキャンバスに出来たのだ。但し、プレハブの食堂だったから、ものの1週間ほどで建物が出来て、更に1週間後食堂がオープンした。  
   
 僕らはそこに目を付けた。学食の終了時刻は夕方6時半。それ以降を僕らの練習場に貸して貰えるよう、大学当局と交渉してOKを貰ったのだ。当時のエレキ・バンドなんて不良のやること。益して、国立大学の敷地の中の学食をエレキ・バンドの練習に使わせろという要求に、良く大学がOKを出したものだ。  
   
 交渉に当たった柴田と阿部に聞いたら、「エレキ・バンドとは言っていない。軽音楽部と言ったまで」とのこと。大学当局の係員もハワイアンとか映画音楽などの類と思ったんだろう。何はともあれ、OKが出たならもうこっちのもの。
    
    
    
     
                      青春賦(10)
   

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 食堂の責任者や、まかないのオバサン達とは直ぐに仲良くなって、食堂の合鍵まで預けて貰って、毎晩の2~3時間の練習が始まった。土日も休まずに。20歳前の若者達だ。好きなことをやりたいだけ出来るのだ。自分達でも驚く程、上達して行った。  
   
 このプレハブ食堂、僕等バンド・メンバーにとっては練習スタジオであり音楽道場だった。そういう意味で僕らにとってとても大事な建物なのだ。  
   
 つい最近、仙台に行く機会があり、僕の大事な友人を案内するために、昔懐かしい教養部の敷地を散歩した。  
   
 僕等の時代には、鉄筋コンクリートの現代的な校舎などなく、戦後の米軍跡地を教養部に当てたので、蒲鉾型の兵舎がそのまま教室として使われていた。だから、キャンバス全体を眺めると、さながらアメリカ映画に出てくる米軍キャンプそのままの姿だった。  
  
 可笑しいのはキャンパスの中心部に大きな教会だったことを偲ばせる建物があり、その中が、階段状に机の並ぶ大講堂になっていたことだ。席を全部埋めると500~600人は優に入れそうな大きさだ。従って、当時の米軍キャンプの人口も結構多かったことを伺わせる。  
  
 そういう蒲鉾群の一角に木造2階建ての小中学校の校舎のような建物があり、それが各サークルの部室がある建物だった。その直ぐ近くに当時あのプレハブの学食があったのだ。  
   
しかし、今は当時の面影はまるで無い。鉄筋コンクリートの立派な建物があちこちに。広い沢山の緑のキャンバスの中に蒲鉾校舎が点在する図だったのが、コンクリートの敷地に鉄筋コンクリートの校舎が林立している。  
   
 場所は懐かしいが、目に入る景色は全く違う世界だった。そりゃそうだよね。あれから44年も経っているんだから。  
   
 さぁ、もういいかな、引き上げようかと思った瞬間、僕の目にあの懐かしいプレハブの学食が飛び込んで来た。正に感動のご対面だ。この学食が当時の姿のまま同じ場所に建っている。ただ当時は出来たばかりで真っ白なウォールで真新しかったが、今では崩れ落ちそうなくらい古めかしい。とても営業している風はない。でもこれが残っているなんて奇跡的。これが唯一、当時の建物だ。  
  
 近くまで行って立て看板を見たら、何と来月取り壊されることが告示されていた。僕は胸が熱くなった。僕に最後の姿を見て貰うまでは頑張ろうと、あたかも、この建物の意志で、今日まで何とか踏ん張っていたように思えたからだ。  
   
 我が青春の記念碑、ありがとう。そして、さようなら。



by knakano0311 | 2020-04-26 10:45 | The Strangers 創世記 | Comments(0)
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