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大屋地爵士のJAZZYな生活

ストレンジャーズ創世記 ~ 成長篇(1) ~


                      青春賦(11)  
   

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 僕らの対外活動は翌年から本格化して行った。大学の寮祭、女子大の文化祭などによく呼ばれるようになったのだ。しかし、軽音の新入りバンドとしては名前が売れていないので、各サークルが資金集めのために主催する「ダンスパーティー」への出演の声がなかなか掛からない。  
   
 既存のバンドは始終呼ばれ、それがバンドにとっても良い資金源となっていて、楽器の買い替えや個人のバイト代になっているようなので、大変羨ましかったのを覚えている。バンドとしてはまだまだ半人前と自分達でも感じていた大学2年生の春、岡崎が残念ながらバンドを辞めざるを得ないことになった。父親と遂に喧嘩になってしまったらしい。「エレキ・バンドなんて、そんな不良に育てたつもりはない」とまで父親に言われたという。  
   
 そう聞いて、こちらも心穏やかではなかったが、岡崎が、「ベンチャーズに憧れてエレキ・ギターをどうしてもやりたかったけど、半年間皆と一緒にやらせて貰ったから、もう充分。自分には全くそういう才能が無いことも分かったから、親から勘当されてまでバンドを続ける訳にも行かない。申し訳ないけど辞めるのを許してくれ」と言ったのに対しては、頷くしかなかった。  
   
 代わりに、1年生の細谷(理学部)がこのバンドでギターをやりたいと加入して来た。更に、バンマス柴田の親友の佐藤(農学部)が僕らのマネージャー役をやってくれることになった。  
   
 さて、それから暫く経ったある時、軽音楽部の音楽祭が大学内の川内記念講堂で行われることになった。軽音の全バンドが出演する発表会みたいなイベントだ。だが、その準備委員会では、加入してまだ半年少々の「The Strangers」の出演を認めるか否かで揉めた。  
   
 反対論を展開したのは、もう1つのロックバンド「Asteroids」。彼等は3年生のバンマスと、僕らと同じ2年生が正規メンバーとなっている。彼らは1年間バンドボーイとして下積みで頑張って来たのに、そんな苦労もしてもいないバンドが、いきなり軽音リサイタルに出場出来るのは承服出来ないというものだった。  
   
 一理ある。正直なところ、下積みをやっていないことが僕らの弱点だった。僕は今年ダメでも来年出られればいいじゃないかと思っていた。だが、その委員会メンバーの柴田(バンマス)と佐藤(マネージャー)はとことん頑張った。オブザーバー参加した僕はその場面をこの目で目撃している。「下積みをやっていないのはその通りだが、部費を払っていても、楽器代や活動費で一切軽音部に負担を掛けずにここまでやって来た。何の苦労もせずに勝手にバンド作って皆と同じに扱えはないだろうとか思われているかも知れないが、既に確立されている皆さんのバンドと違って、全部自前でゼロから立ち上げるのは、下積み以上の苦しさがあることを是非理解して欲しい。それに何より、我々は入部を許された時点でバンドとして正式に認められたと思っている」  
  
 堂々たる主張で、多数決で出場が決まった。反対票はやはり「Asteroids」だけだった。ただ、6バンド中(ロックバンド2、ジャズバンド2、ハワイアンバンド2)1組目の出番となった。前座扱いされたのは仕方なかった。
  
   
   
   

                      青春賦(12)
   
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 軽音楽部リサイタルは、大学の中で行われた。会場は教養部のある地名から通称「川内記念講堂」と呼ばれる建物で、中に入ると学校の講堂というよりも、大きな音楽ホールのようで、座席も劇場のように階段状になっている立派な会場だ。座席数も2,000名ほどが入れる大きなホールなのだ。  
  
 1960年に大学創立50周年を記念して建てられた講堂だから、まだ5年位しか経っていないので真新しい。前年の4月に僕らの入学式が行われた会場だから、中に入るのはこれが2度目ということになる。こんな立派な会場で演奏出来ることが、新米バンドの僕等にとっては心躍る思いなのだ。  
    
 軽音部の部員が1ヶ月以上あらゆるルートに当たってチケットを売った成果か、満員とは言えないまでも、7割かた客で埋まった。午後6時、最初のバンドとして僕ら「ストレンジャーズ」が演奏を開始した。  
   
 今と違い当時の音楽の舞台は、演奏開始まで緞帳が下りていて、音楽が始まってから上がって行く。その瞬間が最も緊張するのだが、最も嬉しい瞬間なのだ。何故なら巧拙に関係なく観客から「待ってました!」と大きな拍手を貰える時だからだ。  
  
 小さな舞台だったが、それまでに幾つか場数を踏んでいたせいもあって、この日は落ち着いて演奏することが出来た。中野のR&B風の歌、阿部の井上忠夫(ブルーコメッツ)ばりのサックスと柴田のギター・テクニック(寺内たけしばり)を前面に打ち出した20分間が終わった。  
   
 初めての大舞台だったが、予想以上に旨く行った。連日連夜の学食練習が実を結んだ瞬間だった。終わって楽屋に戻りメンバー全員でハイタッチ。やったやった。  
   
 その後、5つのバンドが順番にステージで演奏して行った。僕らの注目は「ファイブ・スポッツ」というモダンジャズのバンドだ。元々、クラシック・ギター部の部室で、僕や柴田や中野が練習していた時に、向かいの軽音の部屋からジャズが聞こえて来たから、僕らが軽音に移ったのだ。そのキッカケを与えてくれたのが「ファイブ・スポッツ」なのだ。  
   
 トランペット・サックス・ウッドベース・ピアノ・ドラムの5人組。皆4年生だったり5年生だったり6年生だった。院生や医学部の学生もいたと思うが、多くは留年組。それだけジャズに打ち込んでいたグループだ。僕ら新入りから見れば尊敬の念で接する先輩達。  
    
 当時、仙台には大学は結構な数があって、ジャズバンドは伝統的に各大学にあったが、中でも「ファイブ・スポッツ」は仙台ナンバー1と目されていた。  
    
 当時のヒット曲「テイクファイブ」や「ワークソング」など数曲演奏したが、流石という外ない。一人ひとりが半端じゃないのだから。  
     
 そして、トリは僕らのライバル・バンド「Asteroids」の演奏で軽音部のリサイタルが全て終わった。観客にはアンケート用紙が配られていて、意見感想を求めていたのだが、その最後に、本日も最も良かったバンド名を記入して貰うようになっていた。  
   
 翌日の準備委員会で集約された結果、一番人気は何と僕ら「The Strangers」だった。「Asteroids」を辛うじて上回ったのだ。時代はグループ・サウンズに移ったとは言え、実力ナンバー1の「ファイブ・スポッツ」より上になってしまったことは、メンバー全員何とも申し訳ない気分だった。  
   
 このリサイタルが契機となって、僕らのバンドにもいろいろ声が掛かるようになり、夏には駅前ビアガーデンでのバイト演奏で少し稼ぎ、秋からのダンパ(ダンスパーティー)には連日のように呼ばれるようになって行った。
  
   
   
    

                      青春賦(13)  
     
 ある日、僕と柴田が部室にいた時、「Asteroids」のギターをやっている同じ2年生のBが見知らぬ人を連れて現れた。Bはその客に当大学の軽音楽部について詳しく丁寧に説明している。話の内容から、その客は他の大学の軽音部の学生のようだ。  
   
 後で分かったのだが、この秋、仙台の大学の主だったロックバンドを集めて、一大イベントを開催しようと、各大学が連絡を取り合っていたのだった。それは僕等も望むところだったのだが、Bの客に対する説明に柴田がブチ切れた。
  
 Bが言う。
「我が軽音部には5つのバンドがありまして、1つが、自分達の『Asteroids』ですが、他の4つはジャズとハワイアンです」
「では、おたくの大学のエレキバンドは『Asteroids』だけということですね?」と客。
「もう一つ、マイナーのロック・バンドとしてここいる人達のバンドが存在してはいますが・・・」
   
 これを聞いて柴田がいきなり噛み付いた。
「おい、Bよ。俺達がマイナーだと? 一体誰が決めたんだ!」
Bはその抗議に意表を突かれた面持ちで、
「え? マイナー・バンドで良しとしてやってるんでしょ?」
「じゃぁ、俺達の親バンドってどこなんだ?」と柴田。
「それは『Asteroids』でしょう」。Bは胸を張った。
「ふざけるな!」  
      
 柴田は顔を真っ赤にして、今にも飛び掛らんばかり。僕は他大学の人のいる前で大人気ないから柴田を止めて、2人に出て行くように目配せした。でも、柴田は彼らが帰った後も収まらない。
   
 「ふざけやがって! 俺達がいる前で、あんな風に説明しやがって! あのBの野郎ただじゃおかねー!」と喚く。  
    
 しかし、僕にはBがわざわざ僕等に当て付けのつもりで、或いは、挑発のつもりで他大学の人間に、あんな言い方をしたとは思えなかった。Bは他意も無くそう思い込んでいたのだろう。悪気のない分、余計に柴田には効いた。  
   
 暫くして怒りが収まってから柴田が言った。

 「村山よ。この世界実力主義だよな。こうなりゃ俺達、仙台で一番の人気バンドになって、あいつらを見返してやろうじゃないの」
「そう来なくっちゃ。 軽音リサイタルでも俺達結構評価されたんだから、もっと頑張れば行けるさ」  
    
 以前にも増して、学食練習に身が入って行った。
    
    
     
    
                      青春賦(14)
    
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 1966年の秋、再び当大学の「川内記念講堂」で音楽祭が開かれた。これは、仙台の他の私立大学に声を掛け、各大学から1つ、ロックバンドに出演して貰う初めてのイベントだった。客席は超満員、大成功だった。宮城県の他の大学との交流になるというので大学側も応援してくれた。参加大学は6校に及んだ。当大学からはホームの特権で、「Asteroids」の外に、我が「The Strangers」も出演することが出来た。  
   
 これは、各大学の軽音部共催の形をとっているが、実際にこれを企画し具体化に向けて主導したのは僕らのライバル・バンドの「Asteroids」だった。特に、学年も上、年齢も僕より2歳年上のYさんが、持ち前の情熱と行動力で実現に漕ぎ着けたものだ。Yさんは勿論「Asteroids」のバンマスだし、軽音部の重鎮の1人だ。  
   
 僕等は「Asteroids」を良いライバルと思っているし、サイド・ギターのBとは、1ヶ月前に彼の心無い発言で揉めたけれど、元々僕等はYさんには敬意を持っている。丁度1年前、僕らがまだ軽音部に入る前だったが、「Asteroids」の前身のバンドでリードギターをやっていたYさんが、その時も中心となって、小樽商大のロックバンドを仙台に招いてジョイント・コンサートを開いたことがあった。  
   
 そのコンサートを、僕らも参考のために聴きに行った。Yさん達も腕前は決して見劣りはしないのだが、基本がベンチャーズのレコードを忠実にコピーしたものだ。それに引き換え、小樽商大はボーカル中心、ギター・アドリブは勿論、ドラムソロやベースソロなど多彩なショーアップがなされていて自由自在、型に嵌まっていない。その躍動感が見る者を引き付けた。  
    
 最後の方では、リーダー(ドラム)が、ドラムをやりながら、布施明の「思い出」という曲を歌い始めた。彼はMCで「今、北海道だけで流行っている曲ですが、失恋したばかりの僕にピッタリの歌なので是非聞いてください」と言って歌い出した。初めて聴く曲だがロマンチックな良い歌だ。ロックバンドが歌謡曲みたいな曲を歌うというのも珍しい。  
   
 北海道から仙台に学生バンドを招いてジョイント・コンサートを実現させ成功させたYさんは凄いと思ったが、Yさんの偉いのは、その後自らのバンドを発展的に解散し、メンバーも大胆に刷新して新たに「Asteroids」を編成したことだった。Yさん自らはギターからドラムに代わり、当時バンドボーイをやっていた僕らと同じ1年生をメンバーに登用して再スタートを切ったことだった。  
   
 多分、口に出しては言わないが、小樽商大にショックを受け、今度は彼らを当面の目標にし、いずれはその先を行くバンドになることを固く決意した再出発だったろうと推測した。  
    
 「Asteroids」と「The Strangers」という違いはあるが、同じドラム担当で、上記の経緯も承知している僕から見れば、Yさんは心から尊敬する先輩だった。  
   
 縁とは不思議なもので、最近、Yさんを良く知る人物と知り合えた。仙台出身の歌手。仙台では以前ライブ・バーをやっていた人で、今は東京に来て音楽活動をしている女性だ。僕は昨年12月に、彼女のコンサートが新宿京王プラザで行われた時、姪と一緒に参加し数曲ドラムで参加した。  
   
 彼女の話では、Yさん、今も宮城県で元気に仕事をしているという。
    
   
   
   
                      青春賦(15) 
     
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 バンド結成から1年。仙台6大学のロック・フェスティバルが終わって、遂にみんなから僕も歌って良いとのお許しが出た。僕はどうしても歌いたい曲があった。「アンチェイン・マイ・ハート」だ。レイ・チャールスが歌ってヒットし、直ぐにアストロノーツがロックの曲にカバーして、これまたヒットした曲だ。  
   
 やってみると意外と難しい。歌に気を取られてドラムのリズムが狂うのではなくて、その逆、リズムは問題ないが、英語の歌詞がスラスラ出て来ないのだ。その日から僕は、街を歩きながら、風呂に入りながら、乗り物に乗りながら、四六時中歌を口ずさんで歌詞を暗記することにした。  
   
 やっとバンマス(柴田)の許しが出て、ダンス・パーティーの演奏で歌デビュー。思いの外旨く行った。これは辞められない。癖になる。次々とレパートリーを増やして行った。「サマー・ワイン」「ユー・アー・マイ・デスティニー」「マンデイ・トゥ・フライデイ」等々。  心のどこかに、小樽商大のドラマーがドラムを叩きながら歌っていたのがとってもカッコ良かったのが残っていて、1度やってみたかったのだと思う。ビートルズのリンゴ・スターも数曲歌っているが、後年、バンドのメイン・ボーカルを担当したイーグルスのドン・ヘンリーやジェネシスのフィル・コリンズなどが有名になり、やっと市民権を得たが、当時はまだまだ。ドラマー兼ボーカリストは、それだけで珍しがられた時代。  
   
 仙台では当時、1年中どこかで学生主催のダンス・パーティーが開かれていた。駅前の「日の出会館」、市のほぼ中心にある「青葉会館」は、そういう催しのための貸しホールになっていた。学生がダンパを主催する目的は、パーティー券販売によるサークルの資金集めだ。大学にはサークルが物凄い数があるから、秋からクリスマスに掛けてはそれこそ連日連夜開催されることになる。  
   
 僕等はバンド結成から半年以上、ダンパ出演の声は全く掛かったことがなかったが、大学2年の夏前からぼちぼち出演させて貰えるようになり、秋には、特に6大学ロック・フェスティバルの後は、頻繁に声が掛かるようになっていた。  
   
 余談ながら、仙台市からの依頼で、市役所前の勾当台公園という市民の憩いの場で、平日の昼休みの時間に演奏をしたのはこの頃である。  エレキバンド=不良 の時代に、仙台市の粋な計らいだった。バンマスの柴田が、何度もエレキバンドがそんな所でやって良いのかと当局に確認を入れたくらいだ。市役所にも勇気ある人がいたんだなぁ。そんな活動を通して一般の人にも少しずつ知られるようになって行った。
 
 余談ながら、時代は先に進んで、仙台の「定禅寺通りジャズ・フェスティバル」が大変有名になったが、これも仙台市の強力なバックアップがあっての町興し成功例だ。定禅寺通りは、僕らが仙台市に頼まれて昼の演奏を行なった勾当台公園の直ぐ前の道路なのだ。期間中県外から80万人の観客を呼び込むと言われる「定禅寺通りジャズフェス」のハシリを僕らが務めたのかも知れない。  
   
 僕らのバンドにとって教養部の学生食堂がスタジオ練習場で、ダンパが公開練習場みたいなものになった。勿論、本番は、6大学ロック・フェスティバルや軽音部リサイタル、或いは、このような公園や文化祭での演奏だ。そして、いずれは実現したいとメンバーみんなが思っている、自分達のソロ・コンサートだ。  
   
 頻繁にダンパに出演したり、バンド活動の場が広がって行くに連れて、徐々に女子大生やOL達に知られるようになり、彼女達が「The Strangers」のファンになって行ってくれた。彼女達の紹介で女子大の文化祭に招かれたり、僕ら主催のダンパのチケットを捌いてくれたり。大いに助けて貰った。若い男女のグループだ。そんな活動を通じて、恋が芽生えたりもして行った。 
   
   
   
   
    
                      青春賦(16) 
     

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 僕らのバンド活動は3年の終わりまで続いたが、2年生以降2年間で、一体何回ダンパに出演しただろうか。多分40~50回は下らない。当時のお金で一回8,000円ほどのギャラが貰えたから、マネジャー入れて6人の我々はいつも1人当たり千円のバイト代になった(残りはバンドの共通費用に充当)。  
    
 余談だが、家からの仕送りはして貰っていたが、それは半月と持たない。だからいつも貧乏で、食う物も我慢の日が多かった。1日3食に日清のチキンラーメンなんてことざらだった。街を歩いていても、レストランの入り口にある、料理見本に涎が出たりお腹が鳴る経験はその頃のことだ。  
   
 益して、仕送りの中から少しずつ貯金して、半年毎の授業料を納めるなんてこと出来る訳がない。他のメンバーも事情は同じ。授業料の督促状が親元に出される前に、何とかしなくてはならない。そういう時は積極的にダンパの出演を取りに行く。片っ端から各サークルに、今で言うところの「営業」を掛けるのだ。  
   
 半月に7~8回のダンパをこなすと、授業料を収められた上に、少しは旨いものも食べることが出来たのだった。そうやって何とか滞納と飢餓のピンチを切り抜けることが出来たのだから、バンドには感謝している。尤も、それでも僕は、高校の時52kgあった体重が大学2年では3~4kgも落ちていたのだから、貧乏だった。スマートだった・・・。  
   
 言うのも憚かられるが、仙台では「The Strangers」は結構人気バンドになっていた。それでも2年生のうちは、ダンパのない日の学食練習を真面目に続けていた。全員が教養部在学だから集り易いのもあった。  
   
 だが、3年生になると、学部毎に場所がバラバラになってしまい、毎日集るのはとても無理な状況になって行った。柴田と阿部と佐藤は北仙台の農学部、中野は工学部なので青葉山の上、細谷(理学部)と僕(経済学部)は仙台市の南、片平地区、といった具合だし、学部に進むと実験やらゼミやら教養部ほど時間が自由にならないのもあった。  
   
 学食練習は週1~2回に減って行ったが、逆にそれだけ集中して練習するようになった。そして、最年少の細谷(まだ2年生)も20歳を過ぎ、ティーン・エイジャーのエレキバンドと似たり寄ったりの曲を演奏するのに些か抵抗感を覚えるようになっていた。  
   
 僕等は、クラシック・ギター部から軽音に移ったキッカケが向かいの部室からジャズが聞こえて来たことだったのを忘れていない。誰ともなく「ロックバンドでジャズをやったら面白いんじゃないか」と言い、新ジャンルにチャレンジして行くことで一致したのだ。  
    
 それからだ。ハービー・マンの「カミン・ホーム・ベイビー」を僕等流にアレンジ、ジミー・スミスのオルガンの代表曲「ザ・キャット」、アート・ブレーキーの「キャラバン」、TV番組の主題歌でサックスが生命線の「ピーター・ガンのテーマ」等など、どこのエレキバンドもやらないジャンル、ジャズに挑戦し始めたのだ。  
    
 これが僕等のモチベーションを物凄く高めた。前年より練習量は格段に落ちたが、意気込みが違うから、1曲ずつの完成までの時間は飛躍的に短縮して行った。  ダンパなどでエレキ・ジャズを演奏すると、当時流行りのゴーゴー・ダンスじゃなく、社交ダンスを踊ってくれる人もかなり多くなり、これまでと違いグッと大人の雰囲気に持って行けたような気がする。それがまた僕等の特色になって行った。  
    
 後年、フュージョン(ロックとジャズの融合)という音楽ジャンルが確立されたが、その走りは日本では案外僕達だったのかも知れない・・・なんてね。冗談、冗談。



by knakano0311 | 2020-04-26 10:51 | The Strangers 創世記 | Comments(0)
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