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大屋地爵士のJAZZYな生活

カテゴリ:JAZZY紀行( 58 )

クリスタルの煌きに思い出すストックホルム

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陽が南へ傾き、長い影ができるようになった冬の季節。クリスタルのオブジェを窓辺に置いては、その影の色の変化を楽しんでいる。

スウェーデン。ストックホルムでノーベル賞ウィークが始まった。日本人、今年は医学・生理学賞で北里大特別栄誉教授の「大村智」さんが、物理学賞で東京大宇宙線研究所所長の「梶田隆章」教授が10日に受賞する。

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ストックホルムは仕事で何回も行った街。このブログでも何回か取り上げた。ガムラスタンに残る迷路のような中世の街並み、華麗な王宮、見事に尾を引く「ヘールポップ彗星」を肉眼で見た感動、ヴァーサ号博物館でみた海より引き上げられた巨大な17世紀のヴァイキングの船、「ヴァーサ号」(写真はNETより拝借)、寿司よりも焼酎の梅割りの方が値段が高かった日本食レストラン、地平付近を一晩中太陽が這う白夜の夜、そんな夜ジャズ・クラブで北欧ジャズに酔いしれたこと、ノーベル賞の晩餐会会場でおなじみの「ストックホルム市庁舎」からのフィヨルドの眺めなど、ノーベル賞のニュースを見ていると、ストックホルムの様々な思い出が蘇る。

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さて、ノーベル賞授賞式のホール(写真はNETより拝借)は、仕事での思い出のひとつ。現役当時、防災事業に携わっていたが、スウェーデンの防災事業の子会社の前身の会社が、我々の会社製の火災感知器をシステムに組み込んで、そのホールに納入していたこともあり、授賞式のニュースはちょっと誇らしい。

冒頭のオブジェは、スウェーデンのガラス・オブジェ、シャンパン・グラス・メーカーとして知られる「コスタ・ボダ/KOSTA BODA」社のもので、「KOSTA BODA」は、授賞式の晩餐会で使うワイングラスなどで知られている。オブジェは、ガラス細工に閉じ込められた模様が美しく、出張の際、買い求めたものである。冬は日没も早く、陽もあまりささなかった冬のスエーデンの日を思い出しながら ・・・。

今宵は、「ディア・オールド・ストックホルム/Dear Old Stockholm」で決まりでしょう。元々はスウェーデン民謡(原題;Ack Varmeland, Du Skona)だったが、1951年にテナー・サックスの「スタン・ゲッツ/Stan Getz」が取り上げて以来、ジャズ・スタンダードとして定着、数々の名演を生み出してきた。今は亡き懐かしいプレイヤーたちの演奏で ・・・。

ラウンド・アバウト・ミッドナイト

マイルス・デイヴィス / ソニー・ミュージックレコーズ



「Miles Davis - Dear Old Stockholm」

          

ご本家、「スタン・ゲッツ/Stan Getz」を聴かないわけにはいかないでしょう。アルバム「THE SOUND」(1951)。

THE SOUND

Stan Getz / Proper Box UK



「Stan Getz - Dear Old Stockholm」

          

そして、ボーカル・バージョンを探してみたがこの人しか見当たらない。スウェーデンの伝説的悲劇のディーヴァ、「モニカ・ゼタールンド/Monica Zetterlund」。母国語、スウェーデン語でスウェーデン民謡のこの曲を歌うという、これ以上は望めない究極の「ディア・オールド・ストックホルム」。

ザ・ロスト・テープ(期間生産限定盤)

モニカ・ゼタールンド / SMJ



「Monica Zetterlund - Ack Värmeland, Du Sköna」

          
by knakano0311 | 2015-12-09 09:58 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)

続・カリブから風が吹く 

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もうひとつカリブに因むラテン・ジャズの思い出をちょっとばかり。多分、あまり馴染みのないグループかもしれませんが、ラテン・ジャズで、「カリビアン・ジャズ・プロジェクト/The Caribbean Jazz Project (CJP)」というバンドがある。その昔、ニューヨークへ出張した時、老舗ジャズ・クラブ、あの「ブルー・ノート・ジャズ・クラブ/Blue Note Jazz Club New York」に出演していたバンドが、「カリビアン・ジャズ・プロジェクト」だった。その時が出会いの初めで、トロピカルでカリブの海や風をイメージさせる音色に酔いしれたことを覚えています。(写真はNETより拝借)

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「カリビアン・ジャズ・プロジェクト」は、実力派ヴィブラフォン&マリンバ・プレイヤーの「デイヴ・サミュエルス/Dave Samuels」を中心に、1995年に結成されたラテン・ジャズ、アフロキューバン・ジャズ・ユニット。初期の主要メンバーは3人で、 「Dave Samuels」のほか、ソプラノサックス&アルトサックス&クラリネットが、「パキート・リベラ/Paquito D'Rivera」そして、トロピカルな音色の主役、「スティール・パン(ドラム)/steel pan」は、「アンディ・ナレル/Andy Narell」。

3人でスタートしたものの、何人かのメンバー・チェンジを経て、今ではサックス、トランペット、トロンボーン、オルガンなども加わって、総勢12人もの大編成のオルケスタとなっているようだ。

当時、「ブルー・ノート」で買い求めたアルバムが、「アイランド・ストーリー/Island Stories」(1997)であった。3人の他、ピアノ、ベース、ドラム、パーカッションが加わっている。

Caribbean Jazz Project: Island Stories

Various ArtistsHeads Up


 
「The Caribbean Jazz Project - Bluellespie」
 
          

「The Caribbean Jazz Project - Shadow Play」

          

「ブルー・ノート」での興奮を思い出させるようなライブのアップがありました。「A.C.Jobim」に捧げられた曲でしょうか。

「One For Tom Jobim - The Caribbean Jazz Project, Live, 1997」

          
by knakano0311 | 2015-04-30 15:55 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)

カリブから風が吹く

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さて、暑くなってきました。春どころか初夏を思わせる陽気。爽やかな風が心地よい。つい最近のトップ・ニュースにオバマ大統領とキューバのカストロ国家評議会議長とが会談したというニュースがあった。昨年の12月、オバマ大統領は17日、これまで50年にわたって国交を断絶してきたキューバとの国交正常化に乗り出すと発表した。あのキューバ危機の時は私は16歳。子供ながら、その緊迫感を感じていたことをよく覚えている。米国の経済封鎖が解除されれば、新しい市場としての期待が一気に高まる。

そのキューバ、アメリカの南東、マイアミからわずか150kmのカリブ海に浮かぶ国。ラテン音楽が好きだった私は、中南米への憧れが強く、未だなしえていないが行ってみたい国のひとつである。そのニュースをきっかけに、キューバの首都ハバナの現在の特集がレポートされていたが、ハバナといえば私には忘れられない優れた音楽ドキュメンタリーがある。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ/Buena Vista Social Club」。この映画が、私のキューバへの憧れをさらに強くしたとも言える。かってそのことを書いた記事、「男唄に男が惚れて(5) ~バルー、サルバドール、セグンド 人生の達人たち~」から再録してみる。

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JAZZギタリストでもある、「ライ・クーダー/Ry Cooder」が、キューバ音楽の伝説的なアーティストたちをドキュメンタリー映画としてまとめた「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」をみたのは、1999年、仕事でヨーロッパからシカゴに向かう大西洋上の機内であった。この映画は、1932年ハバナに設立され、かってアメリカ資本華やかなりし頃、全盛期を迎えた「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」で活躍したミュージシャンたちと、今はもうすっかり老いてしまったが、彼らが150年の歴史のある「ソン」という伝統音楽を、その後のキューバ革命の荒波をくぐってを守り続けてきたことを描いたドキュメンタリーである。帰国するなり、すぐにCDを手に入れるほど魅せられたドキュメンタリー。革命の嵐を超え、自分たちの音楽を守り抜いてきた誇りと矜持に支えられ今でも現役のミュージシャンであり続ける伝説の老ミュージシャンたち。主役は当時89歳になるという「コンパイ・セグンド/Compay Segundo」。老いてはいるが、輝きを失っていないその魅力的な表情と歌の力。ここにも、かくありたいと思う「老い」の一つの到達点を見た思いがする。

ブエナ★ビスタ★ソシアル★クラブ Film Telecine Version [DVD]

東北新社



ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

オマーラ・ポルトゥオンド / ライス・レコード



Buena Vista Social Club-Chan Chan」  ツア-ライブから。

          

フル・アルバムがアップされていました。 「Buena Vista Social Club - FULL ALBUM」

          

1. チャン・チャン
2. デ・カミーノ・ア・ラ・ベレーダ (道を踏み外すな)
3. エル・クァルト・デ・トゥラ (トゥラの部屋)
4. ブエブロ・ヌエボ (新しい民族)
5. ドス・ガルデニアス (クチナシの花をふたつ)
6. イ・トゥ・ケ・アス・エチョ? (私の花に何をした?)
7. ベインテ・アニョス (二十年)
8. エル・カレテーロ (荷馬車引き)
9. カンデラ (火)
10. アモール・デ・ロカ・フベントゥッド (青春時代のいい加減な愛)
11. オルグリェシダ (誇りを持って)
12. ムルムリョ (ささやき)
13. ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
14. ラ・バヤメーサ (バヤーモの女)

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そしてもう一つのわたしの「ハバナ」。それはラム酒、「ハバナ・クラブ 7年」である。灼熱の太陽をたっぷり浴びて育った上質のサトウキビを原材料に、伝統的な技法によって造られる「ハバナ・クラブ」は、カカオのような甘さがあり、バニラとカラメルの香りをまとい、極めてまろやか味わいが特長。それがいたく気に入ってしまい、現役の頃この酒は一時、酒場での私の定番だったことがあるほどだった。久しぶりに「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を聴いていたら、無性に「ハバナ・クラブ」が飲みたくなった。そして、フロリダ半島、マイアミの先、「キー・ウェスト」まで点々と続く島々の途中のホテルで、暑い日差しの中、メキシコ湾からの風に吹かれながら、ラム酒を煽り、午睡に耽ったことも思い出した。
by knakano0311 | 2015-04-30 15:34 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)

海峡を渡って ・・・

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「ザ・ブリッジ」。そんなDVD(全5巻、10話)を見た。デンマークの首都「コペンハーゲン」とスウェーデン第3の都市「マルメ(マルモ)」との間に横たわる「エーレスンド(オーレスン)海峡/Öresund channel」をまたがって繋ぐ、「オーレスン橋/Öresund Bridge」。そのライトが突然消えた。しばらくして電源が復旧すると、その橋の上の国境線上には切断された女性の遺体があった。上半身はスウェーデン側に、下半身はデンマーク側に置かれて ・・・。こんなシーンで始まる極上の北欧ミステリー、TVドラマである。

THE BRIDGE/ブリッジ DVD-BOX

アルバトロス



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なぜこのドラマを見たいと思ったのか。それは、この海峡と橋には私はいささかの思い出があったからである。(参照拙ブログ「おやじのハコものがたり(2) ~橋の思い出~」 現役時代、この橋のスウェーデン側の街、「マルメ」に子会社があり、その子会社化するための交渉の担当、その後の事業責任者として何回もこの海峡を訪れたことがあるからである。

最初に訪れたのは、1996年だったであろうか。この時はコペンハーゲン、カストロップ国際空港からは、ヘリコプターで海峡を越えた。海峡の幅は10数キロ、ひとっ飛びであった。橋はその前年、両国の建設合意の直後で、まだ工事に着手したばかりだった。それからは、いつも空港の港から出る高速フェリーで海峡を越えていた。中央部が吊り橋構造となっていて特徴的な形をしているその橋が段々と出来上がっていくのを見ながら海峡を渡ったものである。(上の写真はスウェーデン側から、下の写真はデンマーク側から見たもの いずれもNETより拝借)

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距離が短くても国際航路なので、船中はタックス・フリー。いわゆる消費税が高いため、乗客のスウェーデン人のほとんどはこの船の中で、酒、タバコを限度一杯購入していた。そんな生活の知恵を目の当たりにしたり、一般の人のスウェーデン気質などに触れる1時間ほどの楽しい航海のひと時であった。2000年に正式開通した後は、空港からマルメの中央駅まで直通の列車で40分程で結ばれるようになったため、非常に便利になった。出張時の休日、コペンハーゲンの街に遊ぶ時も、ドライブがてらこの橋をよく渡ったものである。

その後担当が替り、定年を迎え、10年ほど前に訪問したのが最後であった。DVDを観ながら、時折でてくるマルメの街のシーンに懐かしさでいっぱいになった。思えば、わたしの音楽シーンにおける北欧びいき、スウェーデンびいきの由来の原点は、間違いなくここに始まるのである。

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「北欧の貴公子」と呼ばれるジャズ・ピアニストがいる。「ヤン・ラングレン/Jan Lundgren」である。1966年、スウェーデンの生まれ。やがて、マルメ音楽学院に進学。1981年卒業と同時に「マルメ音楽学院」で教鞭を取る傍ら、音楽活動を始める。現在はマルメに住んで、コペンハーゲンを音楽活動の拠点としているという。(参照拙ブログ「スエーデン美女シンガー図鑑(番外編) ~My Dear Old Stockholm~」「もしもピアノが弾けたなら(12)  ~人魚姫のとまどい~」 など) そんな「ヤン・ラングレン」が、5年ぶりにトリオの新作をリリースした。「FLOWERS OF SENDAI」。かっては甘すぎるといいう評価もあったが、相変わらずの、北欧の空気を感じさせる美しい旋律とタッチがいい。

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アルバム・タイトルの「SENDAI」。ある資料には、「彼は、既に3度来日しているが、2003年の3回目の来日時には、仙台で公演をしているという。その時の仙台が被災したことから、このタイトルになったのではないかと推測される」とあった。仙台は大学時代4年間を過ごした街。もしそうだとすれば、私の中で、「ヤン・ラングレン」によって、仙台~コペンハーゲン~オーレスン橋~マルメという環が繋がったことになる。

心地よい余韻が静かに残る演奏。パーソネルは、「Jan Lundgren (p)」、「マティアス・スベンソン/Mattias Swenson (b)」、「ソルタン・チョース/Zoltan Csorz (ds)」。

Flowers of Sendai

Jan -Trio- Lundgren / Bee Jazz



そんなアルバムから2曲。

「Jan Lundgren Trio - Parfait Amour」

          

ピアノ・ソロによるタイトル曲「FLOWERS OF SENDAI」。

「Jan Lundgren Trio -Flowers of Sendai」

          
by knakano0311 | 2014-06-08 14:47 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)

一支国にて国見をする

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長崎県壱岐市まで義父の墓参りを兼ねて、義母の納骨にいってきた。
「壱岐島」。「又南渡一海千余里 名曰瀚海 至一大(支)国 ・・・・ (それからまた南に一海を渡ることで一支(大)国に到着する。この海は瀚海と名づけられる。 ・・・・)」。かの「魏志倭人伝」に「一支(大)国(いきこく)」と言われているところである。

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少し時間があったので、「一支国(いきこく)博物館」へ行ってみた。この博物館は、すぐ近傍にある「原の辻(はるのつじ)遺跡」を中心とした、壱岐島内の遺跡に関する資料や出土品を収蔵展示し、2010年3月にオープンした。冒頭の写真はそこの展望台から、「原の辻遺跡」を臨んだものである。

「原の辻遺跡」は、この島の南東部にある最大の平野、「深江田原(ふかえたばる)」に広がる、佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」と同じように、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての環濠をめぐらせた大規模集落の遺跡である。近年までの発掘調査で、三重の濠、祭祀建物跡、住居跡、楼、船着き場の跡なども確認され、朝鮮半島、中国との交流を示す遺物などから、ここが「一支国」の王都と特定され、2000年(平成12年)には国の特別史跡に指定された。私は、高校時代は考古学クラブに所属し、発掘に明け暮れていたこともあって、古代史、とりわけ、「邪馬台(壹)国」ファンの一人でもある。「邪馬台(壹)国」の場所については諸説あるものの、「対馬国」と、この「一支国」については、場所が特定されていると言ってもいいだろう。

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いや、驚きました。その発掘された王都の存在を裏付けるような出土品の数々。それをもとに復元されたこの地域の古代の人々の活き活きした生活。「原の辻遺跡」の復元整備と連動した展示構成で、現在から時代を遡っていくような分かりやすい工夫がされている。また大スクリーンによる映像プレゼンテーションが終わると、スクリーンがするすると上がって眼前に「原の辻遺跡」が拡がるという演出には、すっかり感心してしまった。展望台から見る風景は、弥生の昔から変わっていないという。まさに「一支国」の王となり、「国見」を体験した思いである。博物館を後にし、復元住居が建ち並ぶ「原の辻遺跡」の現場に立ってみたが、一瞬、私の魂は悠久の時を超え、かって夢中になった「魏志倭人伝」の世界へと飛んだ様な気がした。(上、下の写真は一支国博物館HPより)

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妻の一族の出自の島への初めての旅。初めて会う義母方の親戚たち。そして義父、義母双方の一族の先祖への墓参りもでき、知らなかったルーツを訪ね、確認できた旅でもあった。
 
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さて、「If I could be kIng / Even for a day ・・・ And our love will rule / In this kingdom we hav made ・・・」 なんて歌がありましたね。そう、「エリック・クラプトン/Eric Clapton」の「Change The World」。「ジョン・トラボルタ/John Travolta」主演の映画「フェノミナン/Phenomenon」のテーマ曲でしたね。

チェンジ・ザ・ワールド

エリック・クラプトン / ワーナーミュージック・ジャパン



「Eric Clapton - Change The World」

          



 
 
 
 
by knakano0311 | 2013-08-05 06:29 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)

USA・JAZZY紀行(11) ~名曲の誤解 セント・ルイスへの旅~

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(写真;エアロベース社のマイクロ・ウイング・シリーズ、リンドバーグの愛機、「スピリット・オブ・セント・ルイス」号の完成模型;1927年、リンドバーグが初の大西洋単独無着陸横断に成功した機体。1/160スケール;翼幅88mm;パーツ点数:15;ニッケル合金(洋白)製)

模型飛行機を作っていて思い出したことがある。大分昔であるが、米国出張の途中で「セント・ルイス/St. Louis」を訪れたことがある。この短い旅で、私はある名曲によって、大いなる誤解というか、誤った先入観を私が持っていたことに気が付いたのだ。その曲とは、ジャズのなかで、だれもが知っているだろう曲の一つ、「セント・ルイス・ブルース/Saint Louis Blues」である。「いや~ん、ばか~ん。そこは ・・・。」なんて「ドリフターズ」だったろうか、少し下品なギャグでも一世を風靡した曲でもある。

セント・ルイスは、イリノイ州、アイオワ州、カンサス州に隣接する、アメリカ合衆国ミズーリ州東部、ミシシッピ川とミズーリ川の合流点に位置する人口、35万人くらいの商工業都市である。セキュリティ関連の国際エキヒビジョンが開催されたため訪れたのである。

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その先入観の一つは、余りにも「セント・ルイス・ブルース」が有名なため、セント・ルイスは、ニューオリンズ、ニューヨーク、シカゴなどと同じような「JAZZ City、BLUES Cityである」と勝手に思い込んでいたことであった。しかし実際行ってみると、その期待は見事に裏切られ、歴史的なジャズの街という雰囲気はまったくなかったのである。登ることができるという市の観光シンボルである巨大な「ゲートウェイ・アーチ」が迎えてくれる近代的な都会であった。しかし、収穫として分かったことは、あの「セント・ルイス・ブルース」という曲は、簡単に言ってみれば、いわゆるご当地ソングで、「ウイリアム・クリストファー・ハンディ/W.C.Handy」によって作られた、JAZZ史上最大のヒット曲にして、スタンダードであるということだった。

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そして、二つ目の先入観は、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされる「チャールズ・リンドバーグ/Charles Lindbergh」、「スピリット・オブ・セント・ルイス/Spirit of St. Louis」号による、ノンストップ大西洋横断単独飛行に成功した「リンドバーグ」の出身地であると、これも勝手に思い込んでいたことであった。しかし、「リンドバーグ」は、ミシガン州デトロイト市で生まれ、ミネソタ州リトルフォールズで成長し、1920年代には「ライン・セント・ルイス」という民間航空会社のパイロットとして働いたということで、取り立ててセント・ルイスとの深いつながりはないようである。しかし、一番の誤解を生んだ元は、セント・ルイスのいたるところで見かけるお土産品、例えばT-シャツやキャップ、キーホルダーなどに描かれているあの飛行機であろう。

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その名も「スピリット・オブ・セント・ルイス号」は、1927年5月、「ライアン・エアラインズ社/Ryan Airlines」製の単発機「ライアンNYP-1」の愛称である。「リンドバーグ」が、当時パイロットとして勤めていた「ライン・セント・ルイス社」が、「リンドバーグ」の大西洋横断飛行の試みを支援し、それに対し彼が敬意を表して機に「スピリット・オブ・セント・ルイス号」の名をつけたという。現在、「スピリット・オブ・セント・ルイス号」は、アメリカのワシントンDC、「スミソニアン航空博物館(国立航空宇宙博物館)」に保管・展示されている。(写真参照)

しかし、「セント・ルイス・ブルース」と「セント・ルイス」をめぐる誤解は解けたが、この曲が歴史的な名曲であることに、少しも変わりないのである。

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「セント・ルイス・ブルース」といえば、誰しもが「サッチモ/Satchmo」の愛称で呼ばれた、「ルイ・アームストロング/Louis Armstrong」を思い出すのではないでしょうか。しかし、私もそうでしたが、作曲者やこの曲が誕生してから100年の歴史にまつわる色々なエピソードについては意外と知られていないのではないでしょうか。この曲は、「ブルースの父」と称される「W.C.ハンディ(1873-1958年)」が、1914年に発表した彼の最大のヒット曲であり、おそらく最大の代表作である。

そういえば、10年程前でしょうか、このブログを書き始めるずっと前ですが、NHK‐BSの「世紀を刻んだ歌」という番組で「セント・ルイス・ブルース」が取り上げられていたことがありましたね。そこで「ハンディ」の経歴やこの歌が生まれた経緯、その後のエピソードなどについて放映されていました。すっかり忘れていたその番組のことを思い出したので、ちょっと調べたら、この番組について詳細に書かれたサイト「大好きセントルイス」がありました。それを参考にさせていただき、すこしこの歌の歴史を紐解いてみたいと思います。

「ハンディ」は、アメリカ南部アラバマ州フローレンスで生まれ、牧師だった父は彼に教会の手伝いとして賛美歌を演奏させるために楽譜の読み書きを教えたという。 しかし毎日のようにオルガンを演奏した「ハンディ」は、音楽へ進みたいという想いが強くなったが、父の反対を受け、家を出て、友人とブラスバンドを組み、仕事を探しながら各地を放浪生活をし、耳にした黒人たちの歌を楽譜に書き写したという。やがて無一文同様でセント・ルイスに流れて着いて、黒人たちに施しを受けながら生活をした。その後、セント・ルイスを離れ、小さな楽団の指揮者になった「ハンディ」は、セント・ルイス時代を思い出しながら、「セント・ルイス・ブルース」を作曲したという。そのころの、彼の演奏がYOUTUBEにアップされていました。

「ST.LOUIS BLUES by W.C.Handy and Orchestra」

          

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この曲を愛するジャズ・ファンやミュージシャンは多く、あげれば切りがないくらいの夥しい数(録音回数は1500を超えているらしい)のカバーが存在する。その中で、1925年に録音された「ベッシー・スミス/Bessie Smith」と「ルイ・アームストロング」の共演が、アメリカ音楽史に残る名演とされ、以後、「セント・ルイス・ブルース」といえば「ルイ・アームストロング」という公式が出来上がったようである。そして、この演奏にはエピソ-ドが伝えられていて、吹き込みテ-プを「ハンディ」が聴いて、涙を流しながらその素晴らしさをたたえたという。「W.C.ハンディ」は、1873年生まれというから、この時は老いにさしかかった52歳だったはずである。この歴史上の名盤からの演奏を ・・・・。

「St. Louis Blues - Bessie Smith,Louis Armstrong on Cornet (1925)」

          

そして、サッチモが歌った再び歴史に残る「セント・ルイス・ブルース」の名盤といえば、それからだいぶ経ってからの話だが、「ハンディ」をトリビュートした「プレイズ・W.C.ハンディ」。ボーカルは、「ルイ・アームストロング」と「ヴェルマ・ミドルトン/Velma Middleton」。1954年のことである。

プレイズ・W.C.ハンディ

ルイ・アームストロング / ソニーレコード



「Louis Armstrong with Velma Middleton & His All Stars - Saint Louis Blues」

          

NHK‐BSの「世紀を刻んだ歌」という番組に話を戻すが、「セント・ルイス・ブルース」を世界に広めたのは戦争だったという。 第1次世界大戦で激戦地に送られた黒人だけで編成されたアメリカ軍部隊「ハーレム・ヘル・ファイターズ」が好んで演奏したのが、「セント・ルイス・ブルース」だったというし、母がユダヤ人、父がドイツ人のジャズ・ギタリストで、ジャズを弾圧していたナチス政権下にあって、ナチスに許されてジャズを演奏できるという不可解な状況にいた唯一のジャズマン、「ココ・シューマン/Coco Schumann」が、ユダヤ人強制収容所で演奏した人気のナンバーが、「セント・ルイス・ブルース」だったという。

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第2次世界大戦前、「東欧のパリ」と謳われたポーランドの首都「ワルシャワ」では、西ヨーロッパの流行がいち早く伝わり、特にジャズは熱狂的に受け入れられていた。そのワルシャワで活躍していたのが、 アメリカのジャズ大会で1位の「ルイ・アームストロング」に続き、2位をとったポーランド人のトランペッターで、「白いアームストロング」と呼ばれていた「エディ・ロズナー/Eddie Rosner」であった。彼の演奏する「セント・ルイス・ブルース」は人気の曲だったという。ナチスのポーランド侵攻により祖国を離れ、ジャズが熱狂的に受け入れられていたソヴィエトへ亡命、スターリンにも認められ特別待遇を受けるなどの活躍をみせたが、第二次大戦後、ソヴィエト政府は一転ジャズを拒否、弾圧を受ける身となったロズナーは、祖国ポーランドへ脱出をはかるも、国境付近で逮捕、シベリアに送られ9年間強制労働に従事させられた。

その後の東西冷戦の間は、東側諸国ではジャズのレコードは徹底的に禁止されたが、ジャズ・ファンは使用済みのレントゲン写真を使って「肋骨レコード」と呼ばれたレコードをアングラで作り出したのである。このアングラ盤でもロズナーの演奏する「セント・ルイス・ブルース」は人気があったという。持っているのが見つかれば即逮捕なのだが、このレコードはなんと200万枚も作られた。 ロズナーは、スターリンの死後、1955年にシベリアから解放、18年後の71歳の時に、アメリカへ亡命するが、「セント・ルイス・ブルース」はもちろん、ジャズを一度も演奏することなく、4年後の1976年に西ベルリンで生涯を閉じたという。ヨペックに繋がるルーツをまた一人知った。

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写真が、使用済みのレントゲンフィルムを使用して製作された肋骨レコード。盤面にはろっ骨や頭蓋骨がそのまま写っていたという。日本でも昔流行ったソノシートのようなものでしょうか。ジャズやロックンロールが禁止されていた大戦後の旧ソ連、東欧で、ジャズやロックに惹かれたソビエト赤軍兵士らが西側から持ち帰った音源で、1950年代にひそかに作られた。

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そして、「セント・ルイス・ブルース」にまつわる最後の秘話は、日本の硫黄島の洞窟で発見された日本兵が持っていた、「あきれたぼういず」で人気のあった「川田 晴久(川田 義雄)」盤の日本語で歌われた「セント・ルイス・ブルース」のレコードだった。それは、太平洋戦争末期、アメリカの総攻撃を受けた硫黄島の壕内の遺体の傍らにあったという。多分「浪曲セントルイスブルース」であったろうと思われるが、このレコードは、70歳の時に事故で失明した「ハンディ」の元に届けられ、生涯の宝物となるレコードが届けられる。 「ハンディ」は、このレコードを聴くのが大好きで、聴きながら子供たちにこう語りかけたという。「これは、敵も味方もなく同じ歌が聴かれたことを物語るかけがえのない一枚なのだ。」

このように「セント・ルイス・ブルース」は、数々の数奇をたどり、感動的なエピソードを持ち、それゆえに100年近い歴史を持ちながら、今なお不死鳥の如く愛されている曲なのである。長い記事となったが、忘れかけていたかってのTV番組を思い起こさせ、名曲なるが故のその歴史に思いを馳せ、そして新しい知見を得た「大好きセントルイス」に改めて感謝しつつ、今年1月に亡くなった「エタ・ジェイムズ/Etta James」の「セント・ルイス・ブルース」を聴く。

「Etta James - St. Louis Blues」

          
by knakano0311 | 2012-10-14 09:56 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)

欧州JAZZY紀行(16 ) ~ 美しき機械たちよ!遥かなるドイツ博物館~

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(写真;エアロベース社のマイクロ・ウイング・シリーズで、製作中の「郵便飛行機40型」とその完成模型;ボーイングB40という世界初の旅客機。1/160スケール;翼幅84mm;パーツ点数:20;ニッケル合金(洋白)製)

趣味とかマニアというレベルでは到底ないが、子供の頃から実物や模型を問わず、自動車や飛行機などが好きであった。もちろん、それらのフォルムやデザインもそうであるが、それらを形作っているパーツなども好きであった。当時は、工作模型といえば、それは大変高価なものであったので、子供たちは板や木切れを削って稚拙な模型を作り、遊んでいたように思う。それが、いつ頃からか、多分1960年ごろではなかったと思うのだが、日本でも「プラモデル」が発売されたので、高校の頃だったろうか、「戦艦大和」か何かをプラモデルでは初めて作った記憶がある。

前回のブログでも書いたように、最近ちょっと夢中になっているのが、「エアロベース社」のマイクロ・ウイング・シリーズ。超小型の精密金属製飛行機模型である。パッケージから打ち抜かれたパーツ板を取り出し、それを見た瞬間から、その美しさにもうため息が出るほど。「automobile」、「flying machine」、「flyer」などといった言葉から受けるイメージや語感、雰囲気、それと模型設計者の思い入れといったものが伝わってくる。

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私は、工学部精密工学科卒業をして、電気機器製造会社で設計者として働いていたため、設計図面、部品、それらを作る金型や加工機などのメカのもつ美しさは素直に実感できるのである。美しい部品で組み立てられた製品は性能もよかったという経験も持っている。そんな会社生活の後半で、うれしかった出張の一つがドイツ・ミュンヘンへの出張。スエーデンに子会社をもっていたため、スエーデンへの何回かの出張の際は、必ず欧州本部のあるミュンヘンに立ち寄って経営報告や打ち合わせなどをしていたのである。そして、ミュンヘンからフランクフルト経由の日本への帰国便は決まって夜の便だったため、帰国日は昼3時ころまではフリーであった。そこで、その時間を活かして通ったのが、ミュンヘン市中心部にある「ドイツ・ミュージアム/ドイツ博物館/Deutsches Museum」である。(ドイツ博物館及び以下の写真はネットより拝借)

この「ドイツ博物館」の存在は、ずっと若いころに読んだ、俳優で映画監督の、故・伊丹一三(当時は十三でなく一三といった)のエッセイ集、1976年5月に「文藝春秋」より刊行された「日本世間噺大系」で知って以来、「いつか行ってみたい」とずっと思っていた博物館であった。だから、その夢がかなった博物館でもあったのだ。

日本世間噺大系 (新潮文庫)

伊丹 十三 / 新潮社



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この博物館は、芸術、民俗学、歴史にまつわる博物館ではなく、ドイツが誇る農業、鉱業、航空工学から、鉄道、機械、宇宙に至るまでの「科学・技術工学博物館」。しかも実物に触れることが出来るように展示されている。自動車好きならドイツの誇る名車やオートバイがずらり。船好きなら有名な戦艦や帆船の模型やUボートが ・・・。飛行機好きなら複葉機からジェット戦闘機までの実物が展示され、私のような機械好きには、天にも昇るような心地にさせてくれる博物館なのだ。そのほかにも、コンピュータ、建築、天文、ビール作り、楽器、やら製塩技術など、ありとあらゆるといっていいほど、技術工学に関する展示がなされている。敷地面積約5万km²。展示品目は約1万8千点以上というから、とても1日では廻りきれるわけもなく、私も数回通ったが、上っ面を撫ぜただけであることはよくわかっているので、いまだに全部見たという満足感はないのである。しかしもう行く機会はないかもしれないが ・・・。

最近は手狭になったため、ミュンヘン郊外の町、オーバーシュライスハイムに「シュライスハイム航空館/Flugwerft Schleißheim」という航空専門の別館ができたらしいが、それでも本館の航空機に関する展示は圧巻でそれこそ度肝を抜く。上の写真にもある、史上初めて実戦投入されたジェット戦闘機「メッサーシュミットMe262/Messerschmitt Me 262」の実物を初めて見た時には興奮したものである。

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それよりも興奮したのが、第1次世界大戦におけるドイツ空軍の主力三葉機、「レッド・バロン」と呼ばれた、かの撃墜王「マンフレート・フォン・リヒトホーフェン/Manfred Albrecht Freiherr von Richthofen」大尉の愛機「フォッカーDr.1/Fokker Dr.1」を見た時である。写真のように、この機を赤く塗って愛用していたことで有名であるが、そう、これが「機動戦士ガンダム」に登場する「赤い彗星シャア」の愛機「ザクII」の由来である。まだ戦争が騎士道精神にあふれいた時代、第一次世界大戦の空中戦で、80機を撃墜し、当時のドイツ(プロシャ)きってのアイドル的存在でもあった。そんなリヒトホーフェンの撃墜されるまでの26歳の短い生涯を描いた映画を見たばかりである。そして、ドイツ博物館に展示されているのは、リヒトホーフェンが最後に搭乗していた「フォッカーDr.1 425/17」のレプリカである。

レッド・バロン [DVD]

Happinet(SB)(D)



あの「ドイツ博物館」を思い出しながら、さっ、マイクロ・ウイング・シリーズ、次は「フォッカーDr.I」機の製作に取り掛かろうか ・・・。はたまた、ジャズをBGMとして、「佐々木譲/ベルリン飛行指令」「百田尚樹/永遠の零(ゼロ)」「坂井三郎/大空のサムライ」、「エレストン・トレーバー/飛べ!フェニックス」など、飛行機が主役の冒険小説に夜半の時を忘れましょうか ・・・。、

絵画芸術の国立博物館はいくつもあるが、技術立国などとおだてられてはいるが、自国の技術の歴史についての国立博物館が日本にはひとつもない。これは、はなはだバランスを欠いていると感じるのは、元技術屋の僻みでしょうか?

リヒトホーフェンは敵国イギリスでは「Red Baron (赤い男爵)」と、フランスでは 「Diable Rouge (赤い悪魔)」と呼ばれていたという。「中秋の名月」の今宵の歌、あいにくの台風ですが、「Rouge(赤い)」つながりで、私も行ったことがあるパリにあるキャバレーの踊り子と若き作家のラブストーリー、映画「ムーラン・ルージュ/Moulin Rouge(赤い風車)」の挿入歌、主演の「ニコール・キッドマン/Nicole Kidman」が歌う「One day I'll fly away(いつか私は飛び立つ)」なんぞどうでしょうか ・・・。 元々は1980年、「ジョー・サンプル/Joe Sample」作曲、「ウィル・ジェニングス/Will Jennings」作詞で、「ランディ・クロフォード/Randy Crawford」が歌ってヒットした歌で、色々な歌手にカバーされているので、もうスタンダード化しているといっていいでしょう。サンプルは「レイラ・ハザウェイ/Lalah Hathaway」ともこの歌をコラボしている。

ムーラン・ルージュ [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン



「♪  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・         ・・・・・・・・・・・・・・・・・
   One Day I'll Fly Away        いつかきっと私は飛び立つわ
   Leave your love to yesterday  あなたとの愛は昨日に置き去りにして
   What more can your love do for me  愛がもうこれ以上どうしようもなくなり
   When will love be through with me  愛が私を通り過ぎていったときに
   Why live life from dream to dream    なぜ夢ばっかり追って生きているのかしら
   And dread the day               夢が終わったらどうなるのか
   When dreaming ends             怖くてしょうがないの
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・             ・・・・・・・・・・・・・・・  ♪」


「One day I'll fly away - Nicole Kidman」 映画の一シーンと一緒にどうぞ。

          
by knakano0311 | 2012-09-30 10:13 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)

続・Soul Food を食べる

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実を言えば、私は食い物に多少好き嫌いがある方である。しかし、元来、好奇心の方が強いため、本当はソウル・フードかどうかは分からないが、海外出張の折には、そのように思える実にいろいろなものを喰った。まずアメリカ。正直言って美味いものはほとんどなく、有名なステーキやクラブ、ロブスターの店も訪れたことがあったが、日本のそれらの旨さとは比べ物にならない味であったことを正直に言わねばなるまい。「美味い」と記憶に残っているのは、ニューオリンズのオイスターとガンボ、テキサスのバッファロー・ウィングくらい、これは多分「ソウル・フード」でしょう。そうそう、世界中どこへ行ってもチェーン店があって、食べることができるハンバーガー、これも米国人にとってのソウル・フードといっていいでしょう。

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取澄ましたフランス料理などは、ソウル・フードには値しないかもしれないが、フランスにももちろん家庭料理は沢山あるはずである。そして、ドイツならば、ソーセージ、ザウワー(酢漬け)、レバー・ペーストなどは間違いなくその範疇に入るでしょうし、。スエーデンでは、北海から揚がる魚介類をふんだんに使った、体が芯から温まる熱々の海鮮ブイヤベースなどはまさにソウル・フードといっていいでしょう。

美味い物がないといわれるイギリスでさえ、仔牛のステーキやスペア・リブは絶品で、あの狂牛病騒ぎの最中でも、お構いなしに食っていましたね。そして、タラやカレイ、オヒョウなどの白身魚の切り身に衣をつけて油で揚げたものに、ジャガイモを細い棒状に切って揚げたチップスを添えた「フィッシュ・アンド・チップス」。これはもうソウル・フードの資格十分でしょう。イタリアのパスタ、スペインのパエリアなどは言うに及ばずです。

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そして中国。上海、北京、広東、四川 ・・・、いろいろな料理がある広大な国、そのどれもがソウルフードでしょう。地方の出身者、例えば四川の出身者はあの黄色の辛いスープや「麻婆豆腐」が一番だという。しかし、上海蟹・北京ダックなどは高級料理すぎて、ソウル・フードではないようでな気がする。南の方はよくわからないが、一般に中国人のソウル・フードといえば、餃子ではないだろうか。水餃子であるが、中国では、慶事の時には餃子を食べる習慣があり、今でも旧正月・春節の前の日は、家族総出で餃子を作るという。私が北京に行った時には、必ずと言っていいほど訪れるのが「天津百餃園」。200種類以上の餃子が食べられることで有名な餃子の専門のレストラン。筍やレンコン、しいたけ、豚肉、海老などどれも美味いが、なかでも一番のおおすすめが蟹味噌の餃子。あの口の中に拡がる濃厚な味。一度食べたら病み付きとなり、北京に行けば必ず訪れるようになってしまった。たらふく食って飲んでも、100元くらいで収まるという安さ。

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私には、自分のソウル・フードである故郷の名産「イナゴの佃煮」を上司に土産に持って行って、大変嫌な顔をされたという失敗談がある。本人にとってはソウル・フードでも、一つ間違うと他人には「ゲテモノ」となってしまうのである。ソウル・フードかどうかはわからないが、日本では間違いなく「ゲテモノ」の範疇に入る食材や料理が多くあるのは中国であろう。北京一番の繁華街「王府井(わんふうちん)」の路地でも、串に刺したサソリの黒焼きやヒトデの唐揚げを普通に売っていましたし、大連では大きな赤ナマコを茹でたものを食した経験があります。

「四足ならば机以外、飛んでいるものは飛行機以外何でも食べる」と言われているのが広州である。「食は広州に在り」といわれる由縁である。そこの野生動物市場としてよく知られる「白雲市場」を訪れたことがある。だだっぴろい市場に、ネズミ、ネコ、犬、センザンコウ、ハト、ハクビシンなどの肉がずらっと吊るされているのを観た時は気持ち悪いのを通り越して、一種壮観というか、中国人の「食」に対する執念を感じましたね。私は経験がありませんが、熊の手、猿の脳味噌をすすめられた知人もいました。こうなると映画「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」の世界。私はせいぜい蛇、タガメの唐揚げ、スッポンぐらいでしたか ・・・。それにしても、チャイナドレスのびっくりするような美女が、店員が持ってきた籠の中に蠢いている大きな蛇を指して「おいしそう、これにするわ」などとのたまわっている様を観たときには本当にのけぞりました。北の方でも瀋陽から大連へ向かう列車、彼らが中身を教えずに持たせてくれたのは「犬肉弁当」でありました。どうも犬を食することはそう珍しいことではないらしく、結構いける味でした。

まっ、食欲の秋にふさわしい話題になりましたかどうか ・・・。

ずばり「Soul Food Cafe」という曲があります。フュージョン・ギタリスト「D・T・ウォーカー/David T.Walker」の曲。彼が「ジョー・サンプル/Joe Sample」と組んで出したアルバムのタイトルが「Soul Food Cafe」。曲もウォーカーの自作曲のほか、「The Preacher」、「男が女を愛する時」、「Got My Mojo Workin'」などファンキー色ムンムンの演奏で、「ソウル・フード」を腹一杯喰った気分。 

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SOUL FOOD CAFE

ジョー・サンプル デイビッド・T・ウォーカー / ビクターエンタテインメント


 

残念ながら、この演奏がYOUTUBEには見当たらないので、ウォーカーが2007年、来日の際のライブ盤からお聴きください。DVDが出ているようです。

「David T. Walker - Soul Food Cafe (Live)」。DVD "Live in Tokyo At Cotton Club"(2007)から。 David T. Walker (Guitar)、Byron Miller (Bass)、Clarence McDonald (Piano/Keyboards)、Ndugu Chancler (Drums)。

       
 
 
by knakano0311 | 2011-10-17 09:21 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)

My Last Song

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NHK-BSプレミアム「旅のチカラ」。タイトルは、「My Last Song を探して」。4回の癌との闘いを乗り越え、いま71歳になったキャスター「鳥越俊太郎」氏の旅であった。彼は学生時代に「オスカー・ピーターソン/Oscar Peterson」に魅せられて以来のJAZZファンだという。「自分が死ぬときに流れていて欲しい音楽」、すなわち、彼にとっての「My Last Song」を探したいという思いが強くなった彼は、JAZZの聖地、「ニューオリンズ」と「ニューヨーク」への旅を始める。そのドキュメンタリーであった。「My Last Song」を見つけたいというその思いは、私にも強くあるので大変興味深く観た。

ニューオリンズで鳥越氏は、映画などでよく見かける葬列と一緒に行進するデキシーランド・マーチ・バンドを聴いたり、フランス風の建物が建並ぶ繁華街、「フレンチ・クオーター」のメイン・ストリートである「バーボン・ストリート」に、何十軒と軒を連ねるJAZZのライブ・ハウスも訪ねてみる。さらに、2005年、ニューオリンズを襲ったハリケーン「カトリーナ」が、壊滅的な被害をもたらした黒人居住区の教会も訪ねてみるが、これぞという決定的な曲は、やはり見つからない。しかし、その教会の牧師が言ったこんな言葉が彼の胸に残る。「もっとも大事なことは、人生最後のラスト1マイルをどう生きるかだ」。結局、感じた曲はあったが、決定的な運命の曲といえるものは見つからず、ニューヨークへと旅立つことになる。結果的には、NYでも見つからず、鳥越氏の探す旅は終わらなかった。

私のラスト・ソングは?って。 有力な候補はいくつかあるが、いまだ決定はしておらず、鳥越氏と同じように、探し求めつづけている途中である。多分結局のところ見つからず、人生の本当の最後の瞬間に、今までに聴いた膨大な曲の中から一曲が、脳裏に思い浮かぶのかもしれない。JAZZではなく、童謡や歌謡曲だったりすることも十分にありうる。きっと、「探し求めつづける」、そのことに大きな意義があるのかもしれないとも思う。そして、私は最後の1マイルをどう生きているのであろうか?これには答えを出さなくてはいけないのだが ・・・。

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私がニューオリンズを訪れたのは、2003年9月。そのときも大型のハリケーンが接近し、予定を早めて、ニューヨークへ移動したことがあったので、鳥越氏と重なったような、私のニュー・オリンズへの旅を思い出した。その時訪れたいくつかの場所もTV画面に登場し、懐かしかった。例えば、プリザベーション・ホール。フレンチクォーターの一角にある、ニューオリンズ最古の建物のひとつで、伝統的なディキシーランド・スタイルのジャズを演奏するライブ・ハウス。確か入場料$10であったが、小屋が小さく、入場するのに列を作って並ばねばならなかったことを覚えている。

もうひとつの名物は、「オイスター」と、中にエビ、貝、チキン、ソーセージなどと米が入ったブイヤベースの一種で「ケイジャン料理」である「ガンボ/Gumbo」。有名な専門レストラン「Acme Oyster House」も開店前に行列に並ばねばならなかったが、その味は抜群に美味かった。

ニューオリンズにまつわる曲といえば、やはり「バーボン・ストリートの月/Moon Over Bourbon Street」であろうか。「スティング/Sting」のヒット曲である。この歌を聴くと、南部特有のまとわりつくようなヒートウェイヴ(熱波)のなか、バーボン・ストリートのライブハウスの片隅で、JAZZと酔っ払いの喧騒に身を委ね、バーボンを飲んでいた自分が目に浮かぶ。ちょっぴりメランコリーで悲しい歌。

オリジナルは、「スティング」がJAZZ的アプローチを試みたアルバム「ブルー・タートルの夢」に収録されているが、2001年9月11日、NY同時多発テロの当日イタリアのトスカーナ地方の自宅でのライブの収録盤「・・・オール・ディス・タイム」の方が、JAZZフレーバーの強いアレンジなので、私はこのバージョンの方が好きである。「スティング」のボーカルと絡むように歌うトランペットは「クリス・ボッティ/Chris Botti」。

ブルー・タートルの夢

スティング / ユニバーサル インターナショナル


 

・・・オール・ディス・タイム

スティング / ユニバーサル インターナショナル



「Sting - Moon Over Bourbon Street (Live in Toscana - 2001)」

          

 
 
 
by knakano0311 | 2011-10-10 09:49 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)

欧州JAZZY紀行(15) ~憂鬱なビール~

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いよいよ10月になりましたね。10月と聞いて思い出すのは、「オクトーバーフェスト/Oktoberfest(10月の収穫祭)」。以前勤めていた会社のヨーロッパの拠点がミュンヘン近郊にあったので、欧州にあった子会社への出張などの際、報告にたびたび訪れた街である。いわゆるバイエルン地方の中心地で、テクノロジーの分野では多分世界最大規模のドイツ博物館、ドイツ最大の仕掛け時計がある1909年完成の市庁舎、またBMWの本社もあり、ナチス党の発祥の地、初期の拠点でもあったという歴史も持つ。

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毎年9月半ばから10月上旬にかけて、ミュンヘン郊外の、東京ドーム9個分の広さがあるという広大な緑地「テレージエンヴィーゼ/Theresienwiese(テレーゼの緑地)」で「オクトーバーフェスト」が開催される。祭りのメインはなんと言ってもビールで、新しいビールの醸造シーズンを祝って、なんと1810年以来、200年も続いて開催されているという。世界各国から毎年600万人以上の人が会場を訪れるというから、世界最大級のお祭りといっていい。もちろん、当然のようにわたしも連れていかれましたね。

冒頭の写真は会場に仮設されたビール・テント(Festhalle/フェストハレ)の中である。ちょっとしたアリーナほどはあろうテントの中は、向こうは見えないほどの巨大さで、こんなのがいくつも建っていて、まさに日本でいえば、巨大ビアガーデン。それこそ中では、見知らぬもの同志でも、すぐに打ち解けて、どんちゃん騒ぎ・大宴会状態である。

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わたしも元来ビールもいける口。ミュンヘン名物ホワイト・ソーセージやザウワー(酢漬け)、ポテトなどをほう張りながら、2リットルジョッキーを飲み干すのである。中国の白酒(パイチュウ)もきつかったが、ここはその量が半端でない。そのきつさにさすがの私も参ってしまったことを覚えている。

そして、ドイツの女性は力持ち。ジョッキーの7,8個ぐらいはいとも簡単に持ち運ぶ。一般的には、自動開閉でない列車のドアやホテルやレストランなどの大きくて重いドアを、おばさんや若い女性にあけてもらって、ちょっと恥ずかしい思いをしたことが何度もある。今宵の食卓、ミュンヘンでのあの10月の日の思い出が、ビールとともによみがえる。(写真はいずれもWikipediaより) 

財政破綻をしたギリシャの救済、そしてユーロ、EUの安定を図るため、必死になってギリシャを救おうとしているドイツ政府。しかし、国民の間でも反対論が相当あるという。今年のオクトーバーフェストで飲むビール、いつもの年よりは苦く、憂鬱なビールになるかもしれない。そして日本、夏の祭りもそうだったが、これから迎える「秋祭り」もきっとどこか手放しでは楽しめないだろう。しかし、例年どおり、「丹波篠山味祭り」へ出かけ、今年も心待ちにしている親せき友人へ、最高のビールの友、「黒豆の枝豆」を発送する日が近づいてきた。

10月に縁のある歌、「When October Goes」。アルバム、「2:00AM PARADISE CAFE」に収録された「バリー・マニロウ/Barry Manilow」のヒット曲である。バニロウの歌唱は以前の記事で紹介したので、ここでは「ナンシー・ウィルソン/Nancy Wilson」の歌唱を紹介しておこう。「ナンシー・ウィルソン」、1937年生まれ、74歳。70枚以上のアルバムをリリースし、3度のグラミー賞を受賞した大ベテラン、ジャズボーカルの大御所である。下記の動画は、2010年9月30日にシアトルのジャズクラブ「Jazz Alley」のライブである。74歳とは思えない堂々たる歌いっぷりもさることながら、多分夜も更けた小さなジャズクラブでの観客との軽妙なやり取り、そんなジャズクラブの楽しさ、雰囲気がよく出ている。

「Nancy Wilson ‐When October Goes」。

         
by knakano0311 | 2011-10-01 23:21 | JAZZY紀行 | Trackback | Comments(0)