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大屋地爵士のJAZZYな生活

タグ:おやじJAZZ ( 14 ) タグの人気記事

選択の自由、不自由  ~マーケッターとしてのシニア考(17)~

海外のレコード店を覗いてみると、「日本ではCDが高い」と感ずることがよくある。特に中国などでは、正規盤の日本や欧米のアーティストのCDでも20~30元(約300円~450円)程度であるのにびっくりしてしまう。何故だろうか?中国の場合などははっきりしている。製造コストが先進国に比べかなり安いうえに、発展途上国に対しては、著作権料も特別措置として安く設定しているため、前述のような価格が実現できているのだ。これに目をつけた業者が発展途上国から日本のアーティストのCDを逆輸入し、かなりやすく販売をしたことがあるが、レコード会社の猛反発によって、逆輸入が禁止された。

このような中国の場合はよく分かるのだが、同じ先進国のアメリカと日本の場合を見てみよう。
この3月25日に日本盤が発売された、我がミューズでもある人気JAZZシンガー「ダイアナ・クラール」の「クワイエット・ナイツ」と言うアルバムがある。以下に輸入盤と国内盤を比較してみた。この結果どう思いますか?

アメリカ輸入盤 ;Amazon予約価格 1,485円  発売日3月31日
             一般CD仕様、全12曲
日本盤(通常盤);CDショップ 2,500円  発売日3月25日
             一般CD仕様、ボーナストラック1曲日本語の解説、歌詞カード
日本盤(初回限定盤);CDショップ 3,000円 発売日3月25日
              高音質CD(SHM-CD)仕様、DVD添付(インタビュー等約8分)、
               ボーナストラック1曲、日本語の解説、歌詞カード

クワイエット・ナイツ(初回限定盤)(DVD付)

ダイアナ・クラール / UNIVERSAL CLASSICS(P)(M)



輸入盤と初回限定国内盤とは倍の価格差があるのである。従来からも海外アーティストの場合は、日本盤にはボーナストラックをよくつけているが、そうでもしないと歌詞カードだけでは、その価格差を説明できないのである。かって海外のオリジナルには付いていないのに日本盤のみコピー禁止機能をつけ、しかもそのコストを価格にのせて、ユーザーの大反対にもかかわらず、CCCD(コピーコントロールCD)を発売したことがある。さすがにi-Podのような携帯音楽端末が普及するようになり、最近では眼にしなくなったが。
そして、本来は最高の音質でリスナーに提供しなければならないはずであるが、ダイアナ・クラールの新譜の事例の様に、高音質CDが価格アップの理由付けにされているようである。前回のブログで述べた様に「高音質化」などコストには殆ど反映しないと思われるのに・・・。

また、アルバム「ダイアナ・クラール/クワイエット・ナイツ」を音楽配信によってダウンロード(購入)する場合はどうであろうか?

i-tune shop;1曲150円、アルバム全体では1,500円 国内盤よりさらに1曲プラスされて全14曲

ダウンロードしたアルバム情報は「i-Pod」に入れることは勿論可能だし、CD-Rに焼き付ければ、国内盤と遜色のないCDが出来上がるのだ。

私が観るところ、日本のCDが高い理由は二つ。一つ目は著作権料、二つ目は流通の問題であると思われる。著作権(アーティストの側からいうと印税)というもの、小室某の事件でも報道されたようにかなり不透明なものらしく、それがどう配分され、コストにのっているのかよくわからないこと。そしてもう一つは業界の流通コスト、再販価格制度の問題。このご時世に、自由な価格で売れないのである。そして業界の最大のライバルは「インターネット」と情報技術の「技術革新」である。この情報技術の進歩にレコード業界の古い体質では追いついていけず、ますます苦境に追い込まれて行くのではないだろうか。

私はどうしたかって?我がミューズ「ダイアナ・クラール」をはずすわけにはいきませんし、「モノ」を所有することから抜け出せない旧世代ですので、輸入盤を予約しましたが・・・・。

「Diana Krall - Quiet Nights (Live In Rio Concert 2009)」

          
by knakano0311 | 2009-03-29 10:27 | マーケッターとしてのシニアから | Trackback | Comments(0)

もしもピアノが弾けたなら(20)  ~彼岸のBGMは・・・~   

春のお彼岸。ここまでくると、もう桜の開花も間近、待ち焦がれた「春来る」という感じですね。今日は、朝からゆっくりと音楽に身を委ねてみました。

Wikipediaなどで調べてみると、「彼岸(ひがん)」とは、煩悩を脱した悟りの境地のことをさし、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」というのだそうだ。
春秋2回の彼岸があるが、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりであるという。もとはシルクロードを経て伝わった、生を終えた後の世界を願う考え方に基づいている。心に、西方の遙か彼方にあると考えられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)を思い描き、浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)と理解されているようだ。

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明るく穏やかな陽光注ぐ海の見える高台の自宅で、エンリコ・ピエラヌンツイの「Enrico Pieranunzi/Racconti Mediterranei 」を聴きながら、涅槃を迎え、彼岸の彼方へ渡れたら、もうそれは最高のBGM、最高の夢・・・。
ピアノとダブルベース(Marc Johnson)とクラリネット(Gabriele Mirabassi)という編成の、エンリコのオリジナル曲のアルバム。アルバムタイトルの「Racconti Mediterranei (地中海物語)」どおり、穏やかな春の地中海をほうふつとさせる美しいメロディと演奏が淡々と続いてゆく。通常のピアノトリオとは少し違って、クラリネットが明るい日差しを感じさせる。中でも、3曲目「Canto Nacosto (秘められた歌)」、9曲目「Un'alba Dipinta Sui Muri (壁に描かれた夜明け)」 の美しさは特筆。

Racconti Mediterranei

Enrico Pieranunzi / Egea



「Enrico Pieranunzi, Gabriele Mirabassi, Mark Johnson - Un' Alba Dipinta Sui Muri」 ← リクエストによる埋め込み無効のためクリックください。

「Enrico Pieranunzi - Canto Nascoto」

          

ビル・エヴァンスの流れを汲んだ、欧州のピアニストのなかでもっとも大きな存在感と影響力を放つのが、このイタリアの名手ピエラヌンツィ。
「Ballads」。結晶格子が放つ光のようにも見えるジャケット・・・。静謐の暗闇から徐々にかすかに見えてくる彼岸の明かり。60分の夢と喜び、至福の時間を味わえる。いつものトリオのメンバーは、ベース、「マーク・ジョンソン」、ドラムは「ジョーイ・バロン」。

   春の闇 静寂(しじま)を揺らす ピアノフォルテ 結晶格子の 光にも似て  (爵士)

Ballads

Enrico Pieranunzi / Carrion


by knakano0311 | 2009-03-21 10:47 | もしもピアノが弾けたなら | Trackback | Comments(0)

快人二面相  ~You Only Live Twice~

オヤジの心をくすぐる本格女性JAZZボーカル「テッサ・ソーター」の歌う「You Only Live Twice」を聴いて、その美貌と情感のこもった歌唱力で歌われるこの歌がすっかり好きになってしまった。ご存知、1967年公開のジェームズ・ボンド・シリーズ「007は二度死ぬ」の主題歌である。日本各地で撮影され、ボンド・カーとしてトヨタ2000GTや、若林映子、丹波哲郎、浜美枝などが出演した作品。

「♪  You only live twice or so it seems,
      One life for yourself and one for your dreams.
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
        Make one dream come true, you only live twice. ♪」 
                             (作詞;Leslie Bricusse 作曲;John Barry)

今までJAZZとして聴いたことは無かったが、出だしの2行の歌詞に「あっ、いいなあ」と思ってしまった。成熟した女をうかがわせる美貌、彼女が歌うスタンダード、そしてポップの名曲。若さを生かしながら、華やかに歌うヴィーナスレコードのデビュー・アルバム「キー・ラーゴの夜」。ベイルート、NY、モスクワ、ロンドンなど世界各地のJAZZクラブで活動をする中で、フラメンコや中近東音楽がもつ情熱やソウルに影響を受け、バラードを最も得意とするようであるが、自然体で優しく素直でありながら、濃蜜な情感のこもった歌唱が、粋で心地よい。たぶん、今後大きく成長し、ヴィーナスの女性ボーカルの看板になるかもしれませんね。ちなみに、この歌は映画では「ナンシー・シナトラ」が歌っていましたね。

キー・ラーゴの夜

テッサ・ソーター / ヴィーナスレコード


(この曲を歌っていたのは「テッサ・ソーター/Tessa Souter」。「ニコレッタ・セーケ」と勘違いしていました。ここに訂正いたします。)

この歌から発想した、爵士的解釈による「Live Twice」のトリビア的訳語集・・・・。

【変身!!】
古くは、バットマン、スパイダーマン、狼男、ウルトラマン、仮面ライダーなどへの「超人変身」願望。最近では、復活した必殺仕事人シリーズ、「藤田まこと」扮する「中村主水」 。はたまた、「特命係長・只野仁」あたりが、サラリーマンの変身願望か。さあ諸君!この世で果たせぬ恨みをどう晴らしましょうか ・・・。やはり選挙ですかね。

【二足のわらじ】
かっては、サラリーマンの「タブー、禁忌」のひとつであったが、今のご時勢、不景気、ワーキングシェアとやらで会社が兼業やアルバイト奨励をしている。そういえば、あまたのクリエーター、たとえば、小椋 佳、俵万智、楡周平 などはサラリーマンの傍ら感性を研ぎ、創作活動をしてたんですね。    
私の周りにも、ごく普通のサラリーマンですが、プライベートの別の世界では、知る人ぞ知る趣味人、玄人はだしの名人、達人たちが、何人もいました。家具作り、リモコン・ヨットの世界選手権出場、連珠の世界チャンピオン、絵、陶芸、写真の達人、ゴルフのシングル・プレイヤー。イタリアまで歌いに行ったオペラ・ファン。変わったところでは竹とんぼづくり、フライ作りの名人。彼らは「定年退職、待ってました」とばかり、ニコニコして再スタートをさっと切っていきましたね。定年後の人生を有意義に生きてゆく秘訣やヒントを教えられているような気がしますね。彼らを「面相」と名づけてもいいかもしれませんね。

【ONとOFF】
前項とも関連しますが、サラリーマンは現役の時代に、「ONとOFF」をどう使い分けるか? これがあとあとのためにも結構大事なようです。ソニーの元会長「出井 伸之」氏のエッセイ「ONとOFF」を読むと、氏はその使い分けの達人であったことがよくわかります。「ONとOFF」の意味については、「あとがきにかえて」で出井氏自身がこう語っている。
「『裏番組』や趣味を持つ人は、ビジネス以外の話も面白く、幅広い視点をもっていますから、会社でも人が寄ってきますし発想力も豊かです。『OFF』での蓄積が、いつの間にか会社の仕事(『ON』の世界)にも環流して、『よい循環』が生み出されてゆく。」 と。
「ONとOFF」をスマートに使いこなし、颯爽とグローバル・ビジネスを推進していった当時の著者の姿は、ビジネスマンとして一種の憧れでもあった。

ONとOFF (新潮文庫)

出井 伸之 / 新潮社



【二重人格】
政治家、役者、タレントなど芸能人など厳しい競争社会のなかで、のし上がっていくためには、この種の人格を身に着けなくては決して一流にはなれないという。勿論「素(す)」と「役」を見事に使い分けるためにも。

【化けの皮がはがれる】
今まで上手に使い分けしてきた二つ以上の人格で、世間体の良いほうの一つが破綻すること。普通の人は皮2枚が精一杯であるが、何枚もの皮を被ることができる「魑魅魍魎」、「てだれ」の類が永田町、霞ヶ関界隈には住まうという。

【正体をなくす】
「正体を現す」と同義語である。外国人に、この日本語の意味を教える場合、もっともわかり易いテキストは、某・前財務金融相の記者会見VTRを見せることであろう。現役時代、あまた酒は飲んできたが、このような醜態だけはごめん蒙りたいものだった。ボンジョーレの国イタリアにとどまらず、欧州の昼食には酒がつきもの。とはいえ、昼食に酒をのんでも、午後は、きちっと仕事をこなすのがヨーロッパ・ビジネス社会では当たり前の流儀。多くの取り巻きをつれてチャーター機で出張し、五つ星ホテルのスイート・ルームに泊まっているんでしょう。単身、社益を背負って出張し、欧米流のタフネゴと渉りあうビジネスマンの気概を、少しは見習ったらどうですかねえ。


さて、こんな面白い映画がありましたね。「ニコラス・ケイジ」、「ジョン・トラボルタ」主演、「レッド・クリフ」の「ジョン・ウー」監督による「フェイス/オフ 」。
FBI捜査官のショーン・アーチャーは、逮捕した凶悪テロリスト、キャスター・トロイの顔を移植。組織壊滅をねらって、おとり捜査にのりだすが、今度はトロイが彼の顔を移植して逃走。お互いの顔を入れ替えた2人は、再び対決する。 さあ、どうなる・・・。やや荒唐無稽であるが、ジョン・ウー映画おなじみの白いハトが舞い、ダンスのような華麗な二丁拳銃の銃撃戦、ド派手なアクションの連続の本当に面白い第一級のエンターテイメント。

フェイス/オフ [DVD]


 
by knakano0311 | 2009-03-04 23:05 | おやじのジャズ | Trackback | Comments(0)

60歳過ぎたら聴きたい歌(30) ~Blame It On My Youth~

今回の「60歳過ぎたら聴きたい歌」は、連載してきた「わが青春のジャズ・グラフィティ」の番外編として。

ぼけかかった記憶を頼りに、40年近く昔のことをあれこれ思い出しながら、「わが青春のジャズ・グラフィティ」を書いていますが、人を傷つけたり、人に傷つけられたり、そんな苦い思い出もいくつかよみがえってきました。今になって顧みれば、まだ青いガキで、思慮の浅かった青春、ただ前だけを向いて、立ち止まって回りを見渡す余裕も無かった青春、自分の感情や想いだけを先にたてて行動していた青春、傷つけたことがわかっているのに素直に謝ることができなかった青春、傷つけられて負け犬のように悄然とうなだれるだけだった青春・・・・・。

そしていまから悔やんでも仕方が無いことですが、すべては「Blame It On My Youth」、「若さゆえ」、或いは「若気の至り」とでも訳しましょうか。この歌が、わが青春の「言い訳」あるいは「懺悔」として、聴きたい歌でもある。
えっ、懺悔の値打ちも無いって、それは困ったな、どうしましょうか・・・。

「Blame It On My Youth (若さゆえ)」   作曲;O.Levant  作詞;E.Heyman

「♪ If I expected love when first we kissed,
   Blame it on my youth.
   If only just for you I did exist,
   Blame it on my youth.
   I believed in everything,
   Like a child of three.
   You meant more than anything,
   All the world to me.

   はじめてのキスで恋を期待したとしても 
   それはまだ恋に慣れていなかった僕の若さのせい
   君のためだけに僕が存在しているなんてうぬぼれたとしても、
   未熟だった僕の若さのせい
   まるで三歳のこどものように、
   なんでもすぐに信じてしまったあのころ
   でも僕にとって、君は何よりも意味がある大事なひと、
   僕にとって世界のすべてだった

   If you were on my mind both night and day,
   Blame it on my youth.
   If I forgot to eat and sleep and pray,
   Blame it on my youth.
   And if I cried a little bit when first I learned the truth,
   Don't blame it on my heart,
   Blame it on my youth.

   夜も昼も君のことが頭から離れなかったとしても 
   恋に不慣れだった僕の若さのせい
   食事や寝ること、祈ることさえ忘れるほど、
   恋に溺れてしまったとしても僕の若さのせい
   はじめて本当のことを知って、ちょっぴり涙したとしても
   それは僕の心のせいではないんだ 
   それは僕がまだ未熟だからと思ってほしい   ♪」

あのロリータ・ヴォイスで、「あのころは若かったの。 ごめんなさいね。」などと囁かれれば、きっと「いいよ、いいよ」と、一も二もなく許してしまうに違いない。スウェーデンの妖精「リサ・エクダール/Lisa Ekdahl」が歌う「Blame it on my youth」は、アルバム[When Did You Leave Heaven」。

When Did You Leave Heaven
Lisa Ekdahl / RCA
ISBN : B000003ETV
スコア選択:

「Lisa Ekdahl Blame it on my youth」

          

もう少し「酸いも甘い」もかみ分けられる熟女が歌う「Blame It On My Youth」を選ぶとすれば、エレガントでクールな熟女「ホリー・コール」と妖艶熟女「イーデン・アトウッド」あたりか。「若かったのね。あのころはあなたのよさがわからなくて。」 こんなこと言われたら、あっという間に、焼けぼっくいに火が点きそう・・・。

「ホリー・コール/Holly Cole」。彼女のアルバムを聴くといつも、あたかも、彼女が女優として演ずる一幕のステージのように感じてしまう。おしゃれでクールですこしアンニュイで・・・。

ドント・スモーク・イン・ベッド

ホリー・コール / EMIミュージック・ジャパン



「Blame it on my youth - Holly Cole」

          

「イーデン・アトウッド/Eden Atwood」。小またの切れ上がったいい女、とでも表現したらいいのかな。モデルの仕事もしてたことがあるいうから、かなりの美貌の持ち主。低音部は、少しかすれ声だが高音部は実に伸びやかにスイングする声の持ち主。「This Is Always: Ballad Session」は、スタンダード集。彼女の歌う「Blame It On My Youth」は、ハスキーで、肩の力が抜けた、熟女を感じさせる歌い方。

This Is Always: Ballad Session
Eden Atwood / Groove Note
スコア選択:

「Eden Atwood -Blame It On My Youth」

          

囁きボイスではあるが、「LISA」とはあまりにも対照的な晩年の「チェット・ベイカー」の「Blame ・・・」も捨てがたい味。 生涯ドラッグと酒から抜け出すことができなかった筋金入りの「無頼派JAZZメン」。このアルバムを最後にアムステルダムのホテルから謎の転落死を遂げた。 その彼が歌う、「Blame It On My Youth」は、あまりにもはまり役といえばはまり役。しかし、そういわれても、「それはToo Lateでしょう」と返すしかないのだが・・・・。

Chet Baker Sings and Plays from the Film

Chet Baker / Novus


by knakano0311 | 2009-03-03 23:46 | 60歳過ぎたら聴きたい歌 | Trackback | Comments(0)

我が青春のジャズ・グラフィティ(8)  ~33回転の青春~

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(写真;今も懐かしい世界に住んでいる友より)

会社生活になじんでいくにつれ、内外で気の合う友達や知り合いが出来、ライブハウスやJAZZ喫茶などへも行くようになっていった。

キタの旧・関テレ近くにあったJAZZ喫茶「インタープレイ8」(いまも元気で営業しているらしい・・)、当時大流行のゴーゴー・クラブ「アストロ・メカニクール」。ミナミの外人のベーシストがマスターのJazz Bar「ケント・クラブ」、西田佐知子、和田アキ子、沢田研二などを輩出した、かの有名なジャズ喫茶「ナンバ1番」。神戸はトア・ロードのJAZZバー「サント・ノーレ」、大丸裏のC&W喫茶「ロスト・シティ」、今もある、ライブが聴けた中山手のピザ・ハウス「ピノッキオ」。京大、同志社大、立命館大の近くにあったため、当時学生運動の闘士のたまり場で、二十歳で自らの命を絶った高野悦子著『二十歳の原点』でも知られる、京都・荒神口の伝説のJAZZ喫茶「しあんくれーる」。もうそのころは、「JAZZ喫茶の作法」に耐性も免疫もできていた。たしか、仏語「Champ Clair」という名前は、「思案に暮れる」のしゃれだと聞いたが、ひらがな名前が新鮮だった・・。そんな店の多くは、もうなくなってしまっただろう。

現在も、リーガ・ロイヤルホテルの地下にあり、ピアノ・トリオのJAZZを聴かせた「セラー・バー」、今は無き中之島の「プレイボーイ・クラブ」。勿論、こんな場所は、安月給のサラリーマンではとてもいけないので知り合いなどに連れて行ってもらったのだが。濃いブルーのベルベットのステージドレスで歌う、ブレイク前の「阿川泰子」にすっかり虜にもなった。これが、女性JAZZボーカルへの開眼の瞬間だったのだろうか。

「阿川泰子」、JAZZ歌謡とかいろいろの評価はあるけど、美人を売りにして、一気にホワイトカラー族をJAZZファン、女性ボーカルファンに引き込んだその功績は、まさに女性ボーカルの王道でいいじゃないか、JAZZ功労者に値すると思う。1980年発表の「JOURNEY」は、30万枚を発売したと言うからすごい。

JOURNEY
阿川泰子 / ビクターエンタテインメント
ISBN : B0000561AS
スコア選択:

そして、ある日ラジオから流れてきた歌声が、決定的に私を女性JAZZボーカル・ファンにしてしまった。「バン・バン(Bang Bang)」を歌う「アン・バートン」であった。遅咲きのデビューながら、淡々とした歌い方の中に、彼女の人生からにじみ出る、えもいわれぬ情感が漂う。いまでも愛聴盤になっている「バラード&バートン」。

バラード&バートン
アン・バートン ジャック・スコルズ ルイス・ヴァン・ダイク ジョン・エンゲルス ルディ・ブリンク / ソニーミュージックエンタテインメント
ISBN : B00005G4A4
スコア選択:

昨年末、開館50年目をもって建替えのため一時休館となった「大阪フェスティバル・ホール」も思い出の音楽スポット。伝説の「越路吹雪/日生劇場ライブ」のLPに魅かれ、コンサートを聴きに行った。最上階の一番後ろの席だったが、「人生は過ぎ行く」のエンディングで「捨てないで!」と絞るように歌う暗転のシーンは、いまでも鮮やかに目に焼きついている。日生劇場のライブ盤は今は廃盤なので、ベスト盤からしか聴くことが出来ないが、「人生」という「心の旅路」を歌うことが出来る最高の歌唱力を持った歌手であった。

愛の讃歌
越路吹雪 / 東芝EMI
ISBN : B00007GRD2
スコア選択:

「モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)」を聞いたのも、この「フェス」であった。MJQは「ジャンゴ・ラインハルト」から影響を大きく受けたといわれ、その最高傑作といわれるアルバムは、パリのコンコルド広場をテーマにした「Concorde」。1955年の録音というから、第二次世界大戦の10年後のこの時期に、もうMJQはクラシックとJAZZの融合のハシリともいえる、このアルバムをリリースしていたんですね。B軒で聴いていたMJQを聴けるというんで、もう有頂天になっていたと思う。

Concorde
The Modern Jazz Quartet / Prestige/OJC
ISBN : B000000XZU
スコア選択:

そんな気ままで気楽な生活を楽しんでいた私に転機が訪れたのである。友人の結婚式の受付で、たまたま知り合った女性がいまの妻。そこから横浜-大阪間の遠距離交際が始まるのである。入社間もない新人の身では、東京出張などなく、自前で東京へ行っていたため、いつも素寒貧。映画もコンサートも二人で行ったことは無かった。そんな彼女の最初のプレゼントが、「セルジオ・メンデス」らのカヴァーで世界的に大ヒットした「マシュ・ケ・ナーダ」の作者「ジョルジ・ベン」の1963年のデビュー・アルバム「サンバ・エスケーマ・ノーヴォ」だった。「マシュ・ケ・ナーダ」、「シャヴィ・シューヴァ(コンスタントレイン)」などが収録されたカセット・テープである。すぐお気に入りのアルバムになったが、ブラジル帰りの知り合いに貰ったとかいうブラジル製のカセット・テープ。所詮、品質が悪く、ほどなく破損してしまった。

サンバ・エスケーマ・ノーヴォ

ジョルジ・ベン / ユニバーサル インターナショナル



さらに二枚のJAZZのLPレコードをもらった。バリバリのハード・バップ「レッドガーランド/グルーヴィー」、ビリー・ホリディの死を悼んだ悲痛な叫びの「マルウォルドロン/レフト・アローン」。当時JAZZなどにまったく興味も知識もなかった彼女が、何故それらを選んだのかを、後になって聞いてみたが、本人もそれを贈った記憶すらなく、今もってわからない謎である。

グルーヴィー

レッド・ガーランド / ユニバーサル ミュージック クラシック



女性ボーカルへの傾斜がきっかけとなったのか、はたまた、妻との交際がきっかけとなったのか、トランペッターにして恋歌唄い「チェット・ベイカー」も聴くようになった。ジャンキーで、生涯ドラッグのスキャンダルから抜け出すことは出来ず、最後は1988年5月、滞在中のアムステルダムのホテルの窓から謎の転落死をした。享年59歳。毒を放つ典型的な破滅型のイケメンJAZZプレイヤー。甘くハスキーな高音でささやくように口説くように歌うその魅力と魔力にあやかろうとしたのかも知れない・・・。
   
Chet Baker Sings
Chet Baker / Pacific Jazz
ISBN : B000005GW2
スコア選択:

やがて、結婚をし、子供が出来、裕福ではないが、平凡な生活をおくっていた。ところがある日事件が起こった。かねてから、音が出る動くおもちゃとして、いたくレコード・プレイヤーに興味を持っていた長男(当時2、3歳だったか?)にピック・アップ・アームを折られてしまったのである。そうして、私の「33回転の青春」は突然のように終わった・・・。

ソニーから最初のCD(コンパクト・ディスク)プレーヤーとCDソフトが発売されたのは1982年10月。そして販売枚数でCDがLPを追い抜くのは1986年。当時、次期音楽メディアの主流はCDだ、いやDATだと論議が起こっていて、迷っている私は仕方が無いので、バックアップとして録音してあったカセットで聴いていた。勝負があって、CDが普及し始めたのを機会にCDに切り替え、LPはもう聴かなくなっていった。我が青春のBGMであった150枚ほどのLPもやがて人に譲ってしまい、気がつくと、そのころは身も心も、もうすっかり「オジサン」になっていた・・・。

いまはもう手元に無い33回転の青春。アナログで、非効率ではあるが、どこかのどかで暖かい音のするあのLPレコードと青春を懐かしがっている私がいる・・・。

我が青春のジャズ・グラフィティ/33回転の青春編は、

76)阿川泰子;JOURNEY
77)アンバートン;バラード&バートン
78)アンバートン;ブルー・バートン
79)越路吹雪;愛の讃歌   「日生劇場リサイタル」(廃盤)のため  
80)モダン・ジャズ・カルテット;Concorde
81)モダン・ジャズ・カルテット;Django
82)ジョルジ・ベン;サンバ・エスケーマ・ノーヴォ
83)レッド・ガーランド;グルーヴィー
84)チェットベイカー;Chet Baker Sings
29)マル・ウォルドロン;レフト・アローン   (再掲)
by knakano0311 | 2009-02-18 23:01 | 我が青春のジャズ・グラフィティ | Trackback | Comments(0)

我が青春のジャズ・グラフィティ(7) ~ 青春の光と影 ~

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(写真はわがブログを見て友人が送ってくれた現在のB軒、当時の懐かしいレコードジャケットが飾ってある)

1969年に卒業し、関西の電機メーカーに就職をした。その年、日本中の大学は全共闘による学内占拠やストライキで大荒れに荒れ、その一方で彼らの闘争の対象のアメリカは、アポロ11号による人類初の月面着陸を成し遂げた。また、日本中が沸きかえった大阪万博が開催されるちょうど一年前であった。関西出身の友人はいたが、親戚などの頼れる先はなく、言葉や習慣に戸惑いながらも、スタートした社会人生活であった。自衛隊や禅寺での研修や営業・工場実習を経て、研究所への配属が決まり、とにもかくにも仕事が始まったのは6月半ばであった。当初は大阪の東部の山ろくにある会社の寮から通勤。しかも前年の不祥事?から大の男の二人部屋。期待はまったく裏切られ、音楽を聴く環境ではなかったので、1年後には、1Kの公団住宅へ早々に引っ越していったのである。

そして、ボーナスで安価であるが、やっと買えてうれしかったAudioセットで、「JAZZが聴ける生活」を手に入れることが出来た。その頃よく聞いていたのは、学生時代からの趣向をそのままひきずっていた「CTI」シリーズであったと思う。このシリーズ、今見ても、やはり素晴らしいデザインのジャケットだと思う。

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ソウル・フルート;トラスト・イン・ミー


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マーティー・バトラー;ジョーンズ嬢に会ったかい?


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ナット・アダレイ;You,Baby






新入社員としての研究所づとめ。見習いみたいなもので、まだお客さん扱い、5時には仕事は終了して退社。その上、週休二日制をいち早く導入した企業だったので、週末もやたら暇。ないのはお金ばかりであった。
最初は会社の軽音楽バンドに所属していたが、そのうち、誘われたヨットに熱中になり、週末は練習のため、艇庫のある西宮の浜で過ごすようになっていった。その時期と前後して、一時的にJAZZから離れ、POPS、ブラス・ロック、シンガーソングライター、フォーク、R&Bなどに夢中になった時期があったが、それは、学生時代からひきずってきたものを断ち切りたいという「覚悟」、あるいは「焦燥感」の現れだったかもしれない。 

長谷川きよし、ジョニ・ミッチェル、キャロル・キング、カーリー・サイモン、サイモン&ガーファンクル、チェイス、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、カーぺンターズ、バート・バカラック、リッキー・リー・ジョーンズ、トム・ウェイツ、ダイアナ・ロス、ティナ・ターナー、オーティス・レディング、ビートルズ、サンタナなど手当たり次第、脈絡もなにもなく、酒をあおりながら、ただやみくもに聴きまくったのだ。

孤高のシンガー・ソングライター「ジョニ・ミッチェル」。「ブルー」とならんで「青春の光と影」は若者達に圧倒的な支持を受けた。最近「ハービー・ハンコック」が彼女へのトリビュート・アルバム「リヴァー~ジョニ・ミッチェルへのオマージュ」を出したことにより、彼女への再評価の動きがあるようだ。

青春の光と影

ジョニ・ミッチェル / ワーナーミュージック・ジャパン



そして「酔いどれ詩人」こと「トム・ウェイツ」。しゃがれたかすれ声、ジャズ的なピアノ演奏、しがない人々の心情をユーモラスに描きながらも温かい視線で見つめる独特な歌詞世界。その後あまたのアーティストに影響を与え、カバーもされている。

土曜日の夜

トム・ウェイツ / イーストウエスト・ジャパン



「シカゴ」、「チェイス」と並んで、そのホーン・セクションが奏でるブラス・ロックのかっこよさに痺れた「BS&T」。のちの「MJQ(マンハッタン・ジャズ・クインテット)」のトランペッター「ルー・ソロフ」が参加していたのも特筆。

血と汗と涙

ブラッド・スウェット&ティアーズ / ソニーレコード



1969年8月、ウッドストック・フェスティバルに出演し、「悪魔に魂を売ったのでは」とまで言われ、すすり泣くようなギターが、プレスリーからビートルズにいたるロックの系譜を変えたといわれた「カルロス・サンタナ」。「ブラック・マジック・ウーマン」は、サイケデリックなジャケットのアルバムとともに一世を風靡した。そして、アルバム「アミーゴ」に収録された、インスツルメンタルの「哀愁のヨーロッパ」は、JAZZギタリストがこぞってアルバムで取り上げる定番ともなっている。

天の守護神

サンタナ / ソニーレコード



ベトナム戦争の最中、平和と愛を願うために51万人近くが集ったといわれる「ウッドストック・フェスティバル」は、1969年8月15日(金)から17日(日)までの3日間、アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡で開かれた。「ジミ・ヘンドリックス」が最終日のトリを務めたほか、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル 、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズなどそうそうたるメンバーが約30組出演したという。「ビートルズ」は出演を辞退したが、1970年の解散後のジョン・レノン(その妻のオノ・ヨーコも)は、アメリカにおいてベトナム反戦活動を行い、若者への影響力が強かったため、アメリカ政府から国外退去を命じられるほどであった。その後アメリカは、1973年1月にパリ協定締結、3月にはアメリカ軍がベトナムから撤兵完了し、1975年4月のサイゴン陥落をもってベトナム戦争は終結する。

そして、今から考えれば、何かの陰謀ではないかとも思えるのだが、米軍撤退と軌を一にして、「石油は枯渇する」というプロパガンダが、「ローマ・クラブ」によって世界中に流され、それに呼応するかの様に、1973年第4次中東戦争勃発、OPECによる石油減産、価格引き上げによる「第一次石油ショック」によって、万博のお祭り騒ぎの余韻も束の間、日本中が狂乱の渦に巻き込まれるのはもう間近に迫っていた。

我が青春の(ジャズ)グラフィティ/新入社員時代編は、
52)ソウル・フルート;Trust In Me
53)アーティー・バトラー;Have You Met Miss Jones?
54)ナット・アダレイ;You,Baby
55)ミルト・ジャクソン;サンフラワー
56)デオダード;ツァラトゥストラはかく語りき
57)ジム・ホール;アランフェス協奏曲

58)長谷川きよし;別れのサンバ  一人ぼっちの詩 より
59)ジョニ・ミッチェル;ブルー
60)ジョニ・ミッチェル;青春の光と影
61)キャロル・キング;つづれおり
62)カーリー・サイモン;Carly Simon
63)サイモン&ガーファンクル;明日に架ける橋
64)チェイス;追跡
65)ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ;血と汗と涙
66)カーぺンターズ;ナウ・アンド・ゼン
67)バート・バカラック
68)リッキー・リー・ジョーンズ;浪漫
69)トム・ウェイツ;土曜の夜
70)ティナ・ターナー;プラウド・メアリー
71)オーティス・レディング;ドック・オブ・ザ・ベイ  リスペクト ~ヴェリー・ベスト・オブ・オーティス・レディング より 
72)ジミ・ヘンドリクス;パープル・へイズ エクスペリエンス・ヘンドリックスより
73)ビートルズ;レット・イット・ビー
74)サンタナ;天の守護神
75)サンタナ;アミーゴ

社会人になったとはいえ、研究所勤務のためか、なかなか学生気分が抜けきれず、熱中と挫折を繰り返す、誰もが一度は通るまさに「青き時代」でもあった。
by knakano0311 | 2009-02-15 23:44 | 我が青春のジャズ・グラフィティ | Trackback | Comments(0)

我が青春のジャズ・グラフィティ(5)  ~ 大人の眼差し ~

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サバンナを駆ける一頭のキリン。まるでアートな写真のよう。「アントニオ・カルロス・ジョビン/WAVE」のジャケットです。こんな素敵なジャケットを持つ、レコード・シリーズがJAZZファンの心をつかんで大ヒットした時代があります。CTIレコード。クリード・テイラー(Creed Taylor)が、1967年にA&Mレコード内にCTIレコード(Creed Taylor Issue)を発足、やがて1970年に独立し、正式名称を「Creed Taylor Incorporated」に変更したレーベルです。
テイラーのジャズの大衆化を図るという狙いは見事にあたり、イージー・リスニング・ジャズ、あるいはクロスオーバー(フュージョンの前身)のブームを作ったのである。しかし、一部の硬派のJAZZファンからは「商業的過ぎる」という批判や顰蹙をかった事も事実。また、アントニオ・カルロス・ジョビンやアストラッド・ジルベルト等ブラジルのミュージシャンを起用し、ボサノヴァをアメリカで普及させた立役者でもあった。

当時、一杯30円の学食のうどんと下宿の飯で過ごしていた貧乏学生にとって、150円のサービスランチが大変美味しいので、家からの仕送りや、バイト(バンド)の収入があると、よく行っていたグリルが仙台にありました。CTIのJAZZを知ったのは、そのグリル「B軒」だったのです。ちょうどその頃40歳くらいだったでしょうか、そこの支配人のMTさんがJAZZ好きで、店内にもJAZZYな曲が流れていました。やがて、月1日か2日の定休日の前日の閉店後の店には、若い人が集まるようになり、いつからか店がサロンと化していきました。

普段なら店では流さないような曲をすこしボリュームを上げて流し、一杯の水割りを手にしながら、音楽を楽しみ、和気藹々、わいわいがやがやと時を過ごしたのです。MTさんはといえば、話には加わるのですが、説教じみたことは一切なく、ただニコニコしながら我々若造たちを脇からじっと見守っていたような気がします。ジャズ喫茶の作法に従い、少し深刻ぶってJAZZを聴いていた私をジャズ喫茶から解放してくれたのは、まさにこの店であり、MTさんが、その後の私の音楽の嗜好に大きな影響を与えた人だった。

「ハード・バップ」一辺倒から脱皮して、ボサ・ノバやフュージョン、バロック・ジャズ、R&Dなど多様な音楽を楽しむ姿勢が自然に身についていったと思う。
私が始めて逢った「尊敬できる大人」で、「あんな大人になれたら」と当時私を思わせしめた、そのMTさんが、若くして旅立ってしまったという悲報が届いたのは卒業して10年ほど経ったころであったろうか・・・・。

ソフト・サンバ
ゲイリー・マクファーランド ジミー・クリーヴランド セルダン・パウエル アントニオ・カルロス・ジョビン ケニー・バレル ウィリー・ボボ / ユニバーサルクラシック
ISBN : B000EMH8PE
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MTさんのお気に入りは、当時、全盛だった「ビートルズ」を取り上げ、JAZZYなボサノバにアレンジして聴かせる、アレンジャーの名手で、ビブラフォンプレイヤーの「ゲイリー・マクファーランド/Soft Samba」。40年ぐらい前に、彼らの曲をこんなに粋にボサノバにアレンジしてるなんて信じられないくらい。そのセンスにびっくりした一枚でもある。

テイク・テン
ポール・デスモンド ジム・ホール ジーン・チェリコ ジーン・ライト コニー・ケイ / BMG JAPAN
ISBN : B000ALIZVU
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そしてもう一枚のお気に入りは、「Paul Desmond/Take Ten」。デイブ・ブルーベック・カルテットのSAX「ポール・デスモンド」とギターの「ジム・ホール」がフィーチャーされたアルバム。アルバム・タイトルは大ヒット作、5/4拍子で演奏される「Take Five」の兄弟編。「Alone Togather」のほか、「エル・プリンス」、「埠頭」、「黒いオルフェ/カーニバルの朝」「オルフェのサンバ」など。軽やかであるが、哀愁漂う名演がいっぱい。40年間聴いてもなお飽きない名盤。

ボサノバをしったのも、この店。私の最初のミューズは、「Astrud Gilberto」であった。たまたまNYに出張した折、JAZZクラブに出演していた彼女を聴きにいったほどの「我が初恋のミューズ」であった。もとは「Joao Gilberto」の奥さんで、専業主婦。彼女がキッチンか何かで、鼻歌を口ずさんでいるのを、夫のジョアンがきいて、「これはいける」というんで歌手になったということが、当時のライナーノーツにかいてあったような気がします。

おいしい水
アストラッド・ジルベルト アントニオ・カルロス・ジョビン ジョアン・ドナート / ユニバーサルクラシック
ISBN : B00008KKT0
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そしてもう一人は、ボサノバの創始者、「アントニオ・カルロス・ジョビン」の1963年録音の代表作「イパネマの娘」。ジョビンが奏でるクールなピアノとクラウス・オガーマンのアレンジが魅力的で大ヒットしたインスツルメンタル・ジョビン・スタンダード集。そして、CTIの「WAVE」は、いまだに名盤。驚異的なギターテクニックに魅せられたのは、「バーデン・パウエル」。

イパネマの娘
アントニオ・カルロス・ジョビン / / ユニバーサルクラシック
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我が青春のJAZZグラフィティ/B軒編は、

33)ゲイリー・マクファーランド;ソフトサンバ
34)ポール・デスモンド:テイク・テン
35)アストラッド・ジルベルト;おいしい水
36)アントニオ・カルロス・ジョビン;イパネマから来た娘
37)アントニオ・カルロス・ジョビン;WAVE
38)バーデン・パウエル;ポエマ・オン・ギター

(次回へ続く)
by knakano0311 | 2009-01-26 23:14 | 我が青春のジャズ・グラフィティ | Trackback | Comments(0)

我が青春のジャズ・グラフィティ(4)  ~ジャズ喫茶の作法~

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学生エレキバンドの活動をつづける傍らで、JAZZへの憧れをつのらせていた私は、自然に「JAZZ喫茶」へ出入りするようになっていった。当時、仙台にはJAZZ喫茶がいくつかあったと思うが、たしか「ad'(アド)」、「ブルー・ノート」などというジャズ喫茶に通っていたように思う。この「JAZZ喫茶」というもの、多分日本独特のものであろうと思われる。コーヒーを飲んで、ただひたすらにJAZZレコードを聴く「JAZZ喫茶」、私はアメリカでもヨーロッパでも、中国ですら見たことがない。ライブ演奏を聴きながら酒を飲むJAZZクラブが普通である。
店内の音楽は、主にオーナーが所蔵するレコードによるジャズであり(ボサノヴァやフュージョンを含む)、客からのリクエストに応じるのが普通であった。基本的にはコーヒーがメイン・メニューだが、軽食や夜間は酒を出す店もあった。そんなジャズ喫茶の経営者、マスターは、大抵変わり者で頑固な名物オヤジと言うのが相場であった。作家「村上春樹」が、かってジャズ喫茶のオヤジであったのは有名な話である。

勿論、当時の日本のあちこちに、そんなJAZZ喫茶が多く出来た理由はいくつかあるのである。
当時、JAZZを演奏するミュージシャンは少なく、まして本場アメリカの人気プレイヤーの生演奏に接する機会など、高チャージのJAZZコンサート以外には殆どなかったからである。だから、レコードではあるが、本場の人気JAZZプレイヤーの音楽が聴けるJAZZ喫茶が流行ったのであろう。今でこそ、JAZZクラブがあちこちにあり、JAZZの生演奏を楽しむ場所も機会も増えたが、日本の場合、NYあたりのJAZZクラブに比べても、その料金はかなり高いと言わざるを得ない。

ザ・サイドワインダー+1

リー・モーガン / EMIミュージック・ジャパン


2番目の理由は、オーディオ装置が、かなり高価であったこと。さらに大音量で聴ける住空間など当時の一般の家では望むべくもなかった。普通の家庭では、なかなか揃えることのできない高価なオーディオシステムを装備しているのが通常であり、音質の良さもジャズ喫茶の売りの一つであった。 

ソング・フォー・マイ・ファーザー+4

ホレス・シルヴァー / EMIミュージック・ジャパン


そして、LPレコードもかなり高価であったのも大きな理由。私の初任給が確か3万円であったころ、LPは1500円位していたであろうか、ましてJAZZの輸入盤ともなれば3000円位したのである。輸入盤のジャズLPはびっくりするくらい高価であったが、コーヒー一杯で本場のジャズのレコードを聴くことができ、リクエストも受け付けてくれるジャズ喫茶はアマチュア・ミュージシャンの溜まり場ともなった。私が、最もよく通っていた時期は、3年生から4年生の前半だったであろうか。
私がよくリクエストしていたのは、、「リー・モーガン/サイド・ワインダー」、「バド・パウエル/クレオパトラの夢」、「ソニー・ロリンズ/アルフィー」、「ホレス・シルバー/ソング・フォー・マイ・ファーザー」、「ブルー・ミッチェル/ダウン・ウィズ・イット」、「マル・ウォルドロン/レフト・アローン」などのファンキー、ハード・バップ系のJAZZであった。

ダウン・ウィズ・イット(紙ジャケット仕様)

ブルー・ミッチェル / EMIミュージック・ジャパン


やがて、地方都市仙台でも70年安保を前に学生運動が次第に盛んとなり、デモなども行なわれるようになっていった。参加していた連中が、運動へのエネルギーの源泉や仲間との連帯を求め、また差別や抑圧への抵抗の歴史から生まれたJAZZへの思い入れからか、ジャズ喫茶に集まってきた。そんな中で、「ジョン・コルトレーン」、「チャーリー・ミンガス」、「アルバート・アイラー」などの反体制的な前衛JAZZやフリージャズが、JAZZ喫茶ではよくリクエストされるようになっていた。ノンポリで、就職も決定し、大学4年を迎えていた私は、連日徹夜の卒業実験・論文、卒業設計を仕上げるための忙しさに加え、「店内での会話の禁止」、「楽しんではいけないかのような禁欲的な鑑賞スタイル」といったジャズ喫茶特有の作法や、どうしてもなじめない「フリージャズ」などが理由で、ジャズ喫茶に次第に窮屈さを感じ、遠ざかっていったと思う。

直立猿人

チャールス・ミンガス / Warner Music Japan =music=



いまは、聴くだけだったら、居酒屋でも、蕎麦屋でも、レストランでもどこでもJAZZが流れている時代である。しかし、あの頃は窮屈さを感じていたが、若者たちの時代のエネルギーを間違いなく内包していた「JAZZ喫茶」が、豊かな日本になっていくに従って、だんだんとマニアのための前世紀の遺物と化していったのと平行して、JAZZを聴きたいという当時の若者達の熱気や、JAZZやロックと結びついていた反体制・反骨精神、時代の矛盾に対する反発心なども今では失われてしまったように思う。

そして、「団塊の世代」を強く性格づけるような出来事、全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った、いわゆる東大安田講堂事件が起こるのは、卒業を目前にした1969年(昭和44年)1月18日、19日のことであった。

我が青春のジャズ・グラフィティ/ジャズ喫茶編は、沢山ありすぎて困るのだが、

14)リー・モーガン;サイドワインダー
15)バド・パウエル;クレオパトラの夢 (アルバム「ザ・シーン・チェンジズ」)
16)ソニー・ロリンズ;モリタート (アルバム「サキソフォン・コロッサス」)
17)ソニー・ロリンズ;アルフィー
18)ホレス・シルバー;ソング・フォー・マイ・ファーザー
19)トミー・フラナガン;オーバー・シーズ
20)マイルス・デヴィス;ラウンド・ミッドナイト
21)ソニー・クラーク;クール・ストラッティン
22)コールマン・ホーキンス;ジェリコの戦い
23)ジョン・コルトレーン;ブルートレイン
24)ジョン・コルトレーン;バラード
25)ジョン・コルトレーン;至上の愛
26)マイルス・デイヴィス;カインド・オブ・ブルー
27)セロニアス・モンク;ソロ・モンク
28)ブルー・ミッチェル;ダウン・ウィズ・イット
29)マル・ウォルドロン;レフト・アローン

30)チャーリー・ミンガス;直立猿人
31)ジョン・コルトレーン;ライブ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード・アゲイン
32)アルバー・アイラー;グリニッチ・ヴィレッジのアルバート・アイラー


この記事を書くきっかけのひとつでもあった、ハードボイルド作家「原尞(はら りょう)」氏の自伝的エッセイ「ミステリオーソ」は「セロニアス・モンク」のアルバム・タイトルであったことを、不意に思い出した。「ソロ・モンク」と並んで、ジャケットのイラストが好きな一枚でもあった・・・。

ミステリオーソ+2

セロニアス・モンク / ユニバーサル ミュージック クラシック


by knakano0311 | 2009-01-23 10:46 | 我が青春のジャズ・グラフィティ | Trackback | Comments(0)

我が青春のジャズ・グラフィティ(3)  ~我が愛しの異邦人~

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(写真は1967年大学3年生の時行ったバンドのリサイタルのパンフレット、表紙の稚拙なイラストは私が描いたもの)

1年の浪人を経験したあと1965年に大学に進学し、仙台で生活することになって、始めて本格的に音楽に目覚めたといえる。当時の学生達が異性と出会う場といえば、各学生クラブが資金稼ぎのためにこぞって主宰する「ダンス・パーティ」であった。略して「ダンパー」での人気学生バンドは、JAZZクインテット「ファイヴ・スポッツ」とハワイヤン・バンド「カウラナ・アイランダース」。「ファイヴ・スポッツ」はニューヨークにある有名なJAZZクラブ「5 Spot」をバンド名とし、そのテーマ曲は「Five Spot After Dark」。ダンパーのオープニングでこの曲を聴くともうそれだけでぞくぞくしたものだ。受験などで封印されていたJAZZや音楽への憧れが一気に解き放たれたのである。そして「カウラナ・アイランダース」の十八番に「熱風」と言う和製ハワイヤンではあるが、すごくJAZZYな曲があり、いまでもお気に入りの曲となっている。

「カーティス・フラー」のトロンボーンと、「ベニー・ゴルソン」のサックスの出だしのユニゾンが一世を風靡した「5 Spot After Dark」は、ジャズ喫茶で必ずといっていいほどかかっていた人気盤「ブルースエット」に収録。

ブルースエット
カーティス・フラー / コロムビアミュージックエンタテインメント
ISBN : B000AHQF52
スコア選択:

自分の音楽をハワイアンと定義されるのが嫌いだったらしく、「ハワイアン楽器を使ったポピュラー音楽であり、JAZZをやっているんだ」と自分の音楽を語っていた大橋節夫氏。今聞いても軽快でスウイングするJAZZYな曲「熱風」も忘れられない一曲である。

ハワイアン・ルネッサンス
大橋節夫 ハニーアイランダース / コロムビアミュージックエンタテインメント
ISBN : B00005EPHW
スコア選択:

やがて軽音楽部に入部し、「The Strangers」という名のエレキバンドを結成するまでにそう時間はかからなかった。その頃、ギター部に所属していた、Si君(リードギター)、M君(ドラムス)と私(ベース)を核に、O君(サイドG)、A君(SAX)が加わり、5人でスタートした。当時エレキといえば「不良」の代名詞。それはともかくとして、大音量のため、とにかく困ったのは練習場所。練習場所は、迷惑にならない場所にあった学生食堂を、何とか拝み倒して、営業時間後の夜と休日に借りて練習したように思う。指にたこができ、指紋が無くなり、声が出なくなるほど、本当によく練習した。そして、バンドがデビューしたのは1966年、大学2年生のときであった。しばらくたって、サイドGのO君がサイドG/キーボードのH君に代わり、マネージャーとしてSa君も参加してくれたので、メンバー編成だけを見ると、「ブルー・コメッツ」と同じ編成であったし、事実、ブルコメが、「ブルーシャトー」でレコード大賞をとった後の仙台コンサートで前座をつとめたなんて想い出もある。Si君、O君は残念なことに鬼籍に入ってしまった。

やがて、ダンス・パーティなどから出演依頼が来て、だんだん人気が出てくるにつれ、ちょっとJAZZYなエレキバンドといったカラーにまとまっていったかな。バンド活動は、就職活動が始まる4年生前半までの約2年間ちょっと。工学部は私一人だったので、その両立も大変であったが、何とか卒業できた。女子学生の後援会なんてものも出来、また生意気なことに、3年の時には、リサイタルなんてものも開かせてもらい、まさに全速力で駆け抜けた青春だった。

「ジミー・スミス;ザ・キャット」。我々がJAZZらしきものにチャレンジした記念すべきナンバー。ルネ・クレマン監督「危険がいっぱい(1964)」という当時人気絶頂の「アラン・ドロン」、「ジェーン・フォンダ」主演のフランス映画の主題曲である。、「TVスパイ大作戦(ミッション・インポッシブル)」「燃えよドラゴン」のテーマでおなじみの「ラロ・シフリン」のアレンジによるゴージャスなオーケストラをバックに、ジミーのオルガンが冴え渡る曲。JAZZバンドならいざ知らず、これをレパートリーとする学生エレキバンドは、ほかには皆無であったろうが、我がバンドに新しいJAZZYなキャラクターを付け加えるレパートリーだった。

The Cat
Jimmy Smith / Verve
ISBN : B0000069NA
スコア選択:

そして、当時のダンスパーティでは「モンキーダンス」、「ゴーゴー」が主流であったか。そんな時代を反映して、そのころ「ラムゼイ・ルイス・トリオ」のソウルフルな演奏の「ジ・イン・クラウド(1965)」が、フュージョン(当時はジャズロックといった)ブームを巻き起こしていた。
そんなフュージョンのさきがけともいえる「ハービー・マン/カミン・ホーム・ベイビー」をレパートリーに入れたのもこのころ。マンの天衣無縫なフルートが自在に舞う、「カミン・ホーム・ベイビー」は、1961年に大ヒットしたジャズで、アルバム「ハービーマン/ヴィレッジ・ゲイトのハービー・マン」に収録。

ヴィレッジ・ゲイトのハービー・マン(完全生産限定盤)

ハービー・マン / ワーナーミュージック・ジャパン



そして、当時、われわれがコピーした「ベンチャーズ」の演奏のほうが、たぶん有名であった「デューク・エリントン/キャラバン」もJAZZからのナンバー。
’60ごろに人気があったアメリカの私立探偵を主人公にしたTVドラマシリーズのテーマで、SAXのソロが売りのヘンリーマンシーニ作曲「ピ-ター・ガン」。ウエストコースト派のクールジャズ、こんなJAZZYな曲をよく取り込んだものだ。A君のSAXの腕は相当なものだった。

我々のバンドのメンバーは誰一人としてプロへ進もうなどとは思わなかったが、当時の仙台で活動していたアマチュア・ミュージシャンには、やがてプロの道へすすんで行った「青葉城恋唄」の「さとう宗幸(1949年生まれ)」、TVドラマ「時間ですよ」のお涼さん役、「篠ひろ子」などがいた。たしか「篠ひろ子(1948年生まれ、旧姓沼澤博子)」は、現役の東北学院大学の女子大生で、東北放送のテレビ番組「ホリデー・イン・仙台」のアシスタントとして出演していた。170cmちかい長身で、際立ってオーラがあったのを覚えている。
そして、当時、工学部建築学科に、のちに「オフコース」を結成する「小田和正(1947年生まれ)」がいたはずであるが、音楽活動をしていたかは不明である。

我が青春のJAZZグラフィティ/バンド編は、

7)カーティス・フラー・クインテット;5 Spot After Dark (アルバム「Blues ette」)
8)大橋節夫とハニー・アイランダース;熱風
9)ジミー・スミス;ザ・キャット
10)ハービー・マン;カミン・ホーム・ベイビー (アルバム「ヴィレッジ・ゲイトのハービー・マン」)
11)ラムゼイ・ルイス;ジ・イン・クラウド
12)ヘンリー・マンシーニ;ピーター・ガンのテーマ
13)デューク・エリントン;キャラバン
by knakano0311 | 2009-01-19 23:47 | 我が青春のジャズ・グラフィティ | Trackback | Comments(0)

我が青春のジャズ・グラフィティ(2)  ~ 最初は映画から始まった ~

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最初にジャズに触れたのは、ルイ・マル監督「死刑台のエレベータ」。1961年に入学した高校は、かなり自由な気風で、確か映画館へ入るのは自由であったし、高校自身が「名画鑑賞会」なるものをよくやっていたと思う。フランス映画「死刑台のエレベータ(1958年制作)」はそんな鑑賞会で観た映画であった。高校に入学してぱっと開けた映画の世界。当時はハリウッド映画よりフランス、イタリアなどヨーロッパ映画が全盛で、すっかり夢中になってしまった。「死刑台のエレベータ」は、映画自体のストーリーが面白く、JAZZと言う言葉を知らず、不思議な音楽という印象はあったが、JAZZに夢中になるということはなかった。はっきりJAZZを意識して聴いたのは、多分ラジオで知ったのであろう、これまたフランス映画で、ラクロの有名な心理小説をロジェ・ヴァディム監督が映画化(1959年)した「危険な関係」のテーマ曲である。映画は「18歳未満禁止」のストーリーであったので見ることはなかったが(勿論ほどなくして小説で読んだが・・・)、「アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ」の演奏するそのテーマ曲は16歳の私に強烈な印象を与えたのである。

ちょうどその頃、ラジオ少年でもあった私は普及し始めた「ステレオ」が再生できる手製のアンプとスピーカー・ボックスで、「ナット・キング・コール」、「プラターズ」、「ポール・アンカ」、「パーシー・フェイス、「リカルド・サントス」、「ニニ・ロッソ」などのポピュラー音楽を楽しんでいた時代でもあったのだ。そうそう「ソノシート」なんてものもあったっけ。

危険な関係(サントラ)

アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ / マーキュリー・ミュージックエンタテインメント



そして、乏しい小遣いの中から買った45回転のEP盤。A面が「危険な関係のブルース」 B面が「危険な関係のサンバ」が収録されていたが、いきなり強烈なマイナーの旋律がコンボで演奏され、ドラムが繰り拡げる派手なセッションに、わけも分からず「これがJAZZか・・・」とすっかり魅了されてしまった。

映画の音楽担当が、「セロニアス・モンク」であり、テーマ曲「危険な関係のブルース」が「デューク・ジョーダン」の作品であることは、アーティストの名前も含めて、相当後になって知ったことであるが、「アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ」の名前は、しっかりとその時インプットされた。後に大学時代、実家に帰省したとき「ジャズ・メッセンジャーズ」のコンサートが松本であり、始めて聴く、そのJAZZライブのスイング感、ブレーキーとジョージ川口のドラム合戦の大迫力に圧倒された思い出もある。そして、しばらくたってから買ったJAZZレコード第2弾は「モーニン」のEP盤。いわゆる「ファンキー」とよばれる黒人のJAZZに心を奪われたのである。ちなみに「モーニン/Moanin'(嘆く、呻く)」、朝なのにずいぶん暗い曲だなとずっと勘違いしていたのもこの時期の笑い話である。

普通に貧乏なサラリーマン家庭だったので、レコードを買う小遣いもままならず(当時EP盤が約300円、25~30cmのLP盤が約1500~3000円と高価であった)、ましてJAZZコンサートやJAZZ喫茶などない田舎の小都市。「ワークソング」などラジオから時たま流れるJAZZに耳を澄ます程度で、とてものめりこむというような情況ではなかったが、「聴きたい」というJAZZへの憧れが胸にあった。その一方でやっと買ってもらったガット・ギターに夢中で、クラシックギター教則本を友達と練習する一方で、日本中の若者達を「テケテケテケ・・・」フィーバーに巻き込んだベンチャーズに代表されるエレキギターの音色やビートも確実に私に影響を与えていた。

そんな高校1年生の生活を送っていたが、クラスで文集を出そうと言う話になり、美術クラブに所属していた太田君が、今で言う「アートディレクター」となり「歌う風」なる文集が発行された。
その文集に載っていた太田君の一文にびっくりしたのである。そこには「やっぱり、JAZZはウエストコースト派だね。デイブ・ブルーベックのテイク・ファイヴが一番さ・・・。」 JAZZ好きのお兄さんに影響されたらしく、こんな早熟なジャズ評論らしき一文が載っていたのである。「ウエストコースト派」も「デイブ・ブルーベック」も勿論まったく知らなかった私は「世の中にはすごい高校1年生もいるもんだ」と感心したことを覚えている。

タイム・アウト

デイヴ・ブルーベック / ソニーレコード



この太田君、東京教育大から大手化粧品会社の広告宣伝部門に就職、その後山下洋輔のアルバムのアートディレクターも手がけたり、現在は「居酒屋評論家」として、TV番組『ニッポン居酒屋紀行』出演やいくつかの著作も出版されている「太田和彦」氏である。「居酒屋で聴くジャズ」などのJAZZアルバムの監修も手がけ、いまだに高校時代と変わらず面目躍如と言うところである。

我が青春JAZZグラフィティは、
1)アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ ;危険な関係のブルース
2)アート・ブレイキー&アフロ・キューバン・ボーイズ ;危険な関係のサンバ
3)アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ ;モーニン/Moanin’
4)デイブ・ブルーベック・カルテット;テイク ファイヴ/Take Five (アルバム「タイム・アウト」)
5)ナット・アダレイ;ワーク・ソング/Work Song
6)マイルス・デイビス;死刑台のエレベーター
by knakano0311 | 2009-01-14 20:39 | 我が青春のジャズ・グラフィティ | Trackback | Comments(0)